私的な見解ですが、SMにとって最も大事なのは『心地よいセックス』であると思っています。
ぶっちゃけ緊縛や浣腸、スパンキングなどは前戯です。
一番大切なのは、甘美な交ぐわい。それで全てが上手くいくのです。
よく行楽シーズンのサービスエリアなどで見かけませんか?車を停めるなり怒鳴り合ってるご夫婦。大抵、多産で4人くらい年子で子供がいたりして、あまりの激しい喧嘩にお子様ドン引き…みたいな。
喧嘩が日常茶飯事な程、性格が合わないのに彼等は身体が合うから別れないのです。
どんなに激しい喧嘩をしても、一晩交ぐわえば仲直り(笑)
逆に性格も趣味もピッタリでも身体の相性が悪いと、結果的に離婚に至ったりするのです。
SMにおいても同じです。メインディッシュの満足感こそが大事なのです。
SもMも、普通の恋愛や人間関係では埋められない心の隙間を必死に埋めようとしてるのです。
普通の恋愛においては決してしないようなアブノーマルなプレイを共有するというのは、どれだけ心を開いて相手を受け止めるか、受け入れるか…それをプレイを通じて確認し合っているといえます。
これこそがSMにおけるプレイの根元です。
何故なら、SもMも極度の寂しがり屋なのです。
全てを受け止めるのがSで、全てを受け入れるのがM…。立場の違いはあれど、言葉では伝わらない相手への想いや、埋まらない寂しさを埋めようとする気持ちがプレイをエスカレートさせるのです。
『いやいやセックスなんてしない、緊縛やプレイこそがSMだ』
と言う対極の考えの方もいるでしょう。
彼等からすれば私達のしているSMは『ごっこ』であり、全てが甘ちゃんに見える事でしょう。
その反対に、精神性を重んじる我々から見れば、プレイのみというSMはただの縄遊び。お互いの性的嗜好をぶつけ合って満足している『相手のいるオナニー』に見えてしまうのです。
考え方、感じ方、欲するものの違いであって、どちらが良い悪いではありません。
私もたまにパートナー的にプレイだけを楽しむ相手を求めているM女性と、純粋にプレイを楽しんだりもします。
お互い何を求めているか…ですから。
ただ精神性を求めてるMにプレイ主体で向き合っても、Mは絶対に満足は得られません。逆もまた然り。
安らぎ、安住、満たされたいと願うMに、実験台のようにプレイを求めたらMは去っていきます。
相手はプレイの内容でなく、沢山一緒にいる安心感や一体感を求め、願ってるのですから…。
殆どセックスしかしてなくてもSM的主従関係は成立しますし、様々なプレイを繰り返しても主従関係に至らない事もあります。
ただネットの世界では『安らぎを欲しがるM女性に、自分がずっとしてみたかった、一人歩きした願望を具現化させたがっているだけのS的男性』という図式ばかりが見受けられますね…。
技術と実績を上げれば女性が沢山寄ってくる…と勘違いしてませんか?
一つだけ言えるのは、どんなに有名な調教師になっても『入れ食い』にはなりません。
あの志摩●光氏もゼロから一生懸命、女性を口説いてる…と本人が言ってましたから。
相手のニーズに応えられる事こそが、SのSたる所以。自分の事は後回し。してみたいプレイや願望を優先せず、関係をしっかり築いてからにするべきです。
ネットの世界で自己の妄想や願望を一生懸命書いているような人は、いざ相手が現れても絶対に自分を優先させている筈です。
自分では『相手を想いやって、しっかり出来ている』と思っても絶対に出来てない筈です。
やっと願望が叶う機会…それを前にして人は冷静でいられるモノではありません…。
かく言う私には、願望もしてみたいプレイもありません。
殆どは自分が嫌いで面倒くさいとすら思っているようなプレイを、相手の為にしています。
そして相手を十二分に満足させてからNGであったプレイを施し、自我の壁を少しずつ崩していくのです。
私が楽しいのは、この過程であってプレイに想い入れも一貫性もありません。
そして、関係を築いてから初めて、『こいつにこんな事をさせたらどんな反応をするか』という思考が出てくるのです。Mにだって適性がありますから。
そして完全に相手を掌握した暁には、適性と対極にあるプレイを課し完全に崩壊させるのです。