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アイデンティティ


人生において、個人が体験出来うる事は僅かです。
その狭い視野の中から、その時にベストと思える選択肢を選んでも、人は間違い、迷うのです。


だから、色々な疑似体験をしたいとメディアから情報を得るのです。


テレビ、映画、雑誌、小説、人は自分が知り得ない世界の情報や疑似体験に飢えています。


ネットもそのひとつ。ブログやTwitterの人気も、情報を得る手段だからです。


ここに落とし穴があります。


既存のメディアは発信者が特定出来る情報であり、発信する側は常に責任を伴います。
しかしネットの世界は闇の中。余程の犯罪行為が関与しない限りは発信者の特定はおろか、素性すら解らない世界です。



ブログなどは、借り物の疑似体験を体験談のようにも書けてしまいます。

先人達の使い古された言葉を並べ上げて、机上の空論を展開しても、情報を得たいと躍起になっている初心者からは達人に見えてしまうのです。


しかし借り物は、所詮借り物。語るに落ちるの言葉通り、書けば書くほどボロが出ます。


発言に疑問や矛盾を感じたら、徹底的に考えましょう。発言と行動に同一性が無ければ、十中八九発言は嘘です。

ミニメ機能があるエムブロは、出会いの手段と考えている男性が多いので、特に注意が必要です。


どの情報を信じ、どの情報を棄てるか…情報過多の今の時代に最も大切なのは、疑いを持つ事です。

人を疑って掛かるのは良くない…という人も居ますが、Web上の発信者は『貴女に行動を伴った信用を勝ち得た人間ではない』のですから。


行動の積み重ねが信用になり、信用の積み重ねが信頼になる。信用も信頼もしていない相手を疑わないのは、ただの愚か者です。



不人気ブログの書き手、かく語りき

さて、無コメント記録を更新中の私の不人気ブログですが、別にコメントに対して検閲を行っている訳ではありません。


本当に人気がないだけです(笑)


まぁ、蘊蓄系ブログなのに批判的なコメントをシャットアウトした上でアク禁にし、体面を守ろうとするような方も中にはいらっしゃいますが、寧ろ私は批判コメント大歓迎なのです…。


感情的にならずに反対論者と対話する事はとても有意義な事です。賛同者の意見は自分の価値観の範囲内なので共感は得られるけど進歩がないわけで…。

でも反対意見は、自分の想像力の及ばない観点から物事を見ている方からの指摘だったりもするわけで、共感は出来なくとも色々と考えさせられる部分があったりと、プラスになる事が多いからです。

まぁポリシーもアイデンティティも教養もそれ相当の経験もない人からのそれは、世間一般では『茶々』とか『揚げ足』と呼びますけど…。


まぁネットの世界は、何気なく自分の意見を述べただけでも噛みつかれたり、逆に攻撃されたりがあるので、一度でもそんな経験をエムブロでされた方は、この手のブログはスルーするのかもですが…実は異論反論があったら良いなぁ…などと思ったりしてます(願望)

一生、互いに理解し得ない相手と、対話もできないという訳ではないので。対話するに足る人物なら、正反対の意見の方とも充分に対話って出来るものです。


『私はそうは思わない』という方の意見を聞けたら嬉しいです。
あ…意見というのは、しっかりした理由が明記されてるモノを指す言葉ですので、それが理解出来る方で出来ればお願い致します。

反対意見も意見として筋が通ってれば尊重しますので、首根っこ抑えて恫喝するような真似はしませんから(笑)
それが聞けないならブログなんかに書かずとも、自ら日々、反芻してれば良い訳であって。別にエムブロという村で、相手を探してるわけでも、『凄い人だ』と思われて、小山の大将を気取りたい訳でもないので(笑)

なぜ調教師という形容が嫌なのか?

調教…。

競争馬だろうと、水族館の生物だろうと、調教には監禁という、生命維持に重要な『食住の支配』が伴います。

特に馬などは、走らなければソーセージにされて食卓に並べられてしまいます。


つまり調教とは、従わなければ確実な死が待つ状態で、得物で調伏する事…。死という恐怖による統治であり、導く者ではありません。
宝くじか何かに当たって、監禁願望があるM女性を完全に監禁状態して初めて調教なのでは?。

防音の一軒家でも用意し、鎖で繋いで主が食べ物を持ってこなければ餓死する…そのような極限状態で毎夜毎晩、徹底的な性奴隷としての施しを繰り返し、心身共に洗脳されて初めて調教とは成り立つのではないか…と。

まさにエロ劇画の世界です。

ここまでではないにしろ、少なくとも食住の世話を完全にしてない限り『調教』などとは決して呼べないと思うのです。


躾は違います。

道を誤らないように、少しずつ軌道修正してやる…時には、間違ってる部分を修正せず、失敗から教訓を得る一部始終を見守るのが躾です。


Mの人は、著しくメンタルが弱かったり、頑固で負けず嫌いなのが仇となり周りと上手くコミュニケーションがとれなかったりと様々な悩みを抱えてる場合が殆どです。
その彼等(彼女等)の、無軌道で稚拙な部分を、少しずつ一般的な思考パターンに導いてやるのが躾です。




調教と躾の一番の違いは、自分に都合よく相手を変えるか、相手の人格を殺さずに良い方向に導くか…。


私の灰色の脳細胞は、調教という言葉に反応して、ここまで思考を巡らすのです。

そして調教師という形容を、安易に自分に対して使われる事を嫌悪してしまうのです。



重要な事。

私的な見解ですが、SMにとって最も大事なのは『心地よいセックス』であると思っています。

ぶっちゃけ緊縛や浣腸、スパンキングなどは前戯です。

一番大切なのは、甘美な交ぐわい。それで全てが上手くいくのです。



よく行楽シーズンのサービスエリアなどで見かけませんか?車を停めるなり怒鳴り合ってるご夫婦。大抵、多産で4人くらい年子で子供がいたりして、あまりの激しい喧嘩にお子様ドン引き…みたいな。

喧嘩が日常茶飯事な程、性格が合わないのに彼等は身体が合うから別れないのです。
どんなに激しい喧嘩をしても、一晩交ぐわえば仲直り(笑)

逆に性格も趣味もピッタリでも身体の相性が悪いと、結果的に離婚に至ったりするのです。



SMにおいても同じです。メインディッシュの満足感こそが大事なのです。

SもMも、普通の恋愛や人間関係では埋められない心の隙間を必死に埋めようとしてるのです。
普通の恋愛においては決してしないようなアブノーマルなプレイを共有するというのは、どれだけ心を開いて相手を受け止めるか、受け入れるか…それをプレイを通じて確認し合っているといえます。
これこそがSMにおけるプレイの根元です。

何故なら、SもMも極度の寂しがり屋なのです。

全てを受け止めるのがSで、全てを受け入れるのがM…。立場の違いはあれど、言葉では伝わらない相手への想いや、埋まらない寂しさを埋めようとする気持ちがプレイをエスカレートさせるのです。



『いやいやセックスなんてしない、緊縛やプレイこそがSMだ』
と言う対極の考えの方もいるでしょう。

彼等からすれば私達のしているSMは『ごっこ』であり、全てが甘ちゃんに見える事でしょう。


その反対に、精神性を重んじる我々から見れば、プレイのみというSMはただの縄遊び。お互いの性的嗜好をぶつけ合って満足している『相手のいるオナニー』に見えてしまうのです。


考え方、感じ方、欲するものの違いであって、どちらが良い悪いではありません。
私もたまにパートナー的にプレイだけを楽しむ相手を求めているM女性と、純粋にプレイを楽しんだりもします。


お互い何を求めているか…ですから。

ただ精神性を求めてるMにプレイ主体で向き合っても、Mは絶対に満足は得られません。逆もまた然り。

安らぎ、安住、満たされたいと願うMに、実験台のようにプレイを求めたらMは去っていきます。
相手はプレイの内容でなく、沢山一緒にいる安心感や一体感を求め、願ってるのですから…。


殆どセックスしかしてなくてもSM的主従関係は成立しますし、様々なプレイを繰り返しても主従関係に至らない事もあります。


ただネットの世界では『安らぎを欲しがるM女性に、自分がずっとしてみたかった、一人歩きした願望を具現化させたがっているだけのS的男性』という図式ばかりが見受けられますね…。

技術と実績を上げれば女性が沢山寄ってくる…と勘違いしてませんか?

一つだけ言えるのは、どんなに有名な調教師になっても『入れ食い』にはなりません。
あの志摩●光氏もゼロから一生懸命、女性を口説いてる…と本人が言ってましたから。


相手のニーズに応えられる事こそが、SのSたる所以。自分の事は後回し。してみたいプレイや願望を優先せず、関係をしっかり築いてからにするべきです。


ネットの世界で自己の妄想や願望を一生懸命書いているような人は、いざ相手が現れても絶対に自分を優先させている筈です。
自分では『相手を想いやって、しっかり出来ている』と思っても絶対に出来てない筈です。
やっと願望が叶う機会…それを前にして人は冷静でいられるモノではありません…。


かく言う私には、願望もしてみたいプレイもありません。
殆どは自分が嫌いで面倒くさいとすら思っているようなプレイを、相手の為にしています。
そして相手を十二分に満足させてからNGであったプレイを施し、自我の壁を少しずつ崩していくのです。


私が楽しいのは、この過程であってプレイに想い入れも一貫性もありません。
そして、関係を築いてから初めて、『こいつにこんな事をさせたらどんな反応をするか』という思考が出てくるのです。Mにだって適性がありますから。

そして完全に相手を掌握した暁には、適性と対極にあるプレイを課し完全に崩壊させるのです。

続、緊縛と比例するもの…


かなり極論で異論反論あると思いますが、技術論を重視している訳ではありません。

人を導くという行為を遂行するには、まず『性的な満足感によるポジティブストロークを与えなくては駄目』だからです。

精神性などが知り合うきっかけだとしたら、リアルで会った時は、まず技術で酔わせなくてなりません。


プレイの根底にあるモノは何か?

快楽、羞恥、苦痛…ありとあらゆる性技を駆使して辿り着こうとする境地というのは何か?

それはMを精神的、肉体的に掌握して自我を崩壊させる瞬間を作ること…つまり同化です。



フロイトに師事したヴィクトール・タウスクは自身の論文の中で
『子供が親に初めて嘘をついた瞬間(ファーストライ)が自我の芽生え』
と説きました。

子供は自分が生を受け暫くは親と一心同体…運命共同体であると認識している。親は自分の生命を維持するための絶対的な存在であり、その親に対して、自分を守る為に嘘をつく…その瞬間こそが自我の芽生えであり、個の確立へと向けた第一歩である…と。


その個となった存在の自我障壁を崩壊させ解放してやる事…。かつて親に抱いたような絶対的な存在になる…プレイの意味はここにあります。

プレイをしていると幼児回帰してワンワン泣き出すMがいますが、これこそが導くという作業の第一歩なのです。


暴力と恐怖による後遺症やトラウマの残るような自我崩壊は誰にでもできます。犯罪被害者で苦しんでる方などは沢山いるのですから。



人を導く…。いくら頭で理解していても、人の繋がりはアドリブの連続です。
場数を踏まないと何事も上手く出来ず、突発的な事に対処出来ないのです。

導き方に正解が無いのですから、経験だけが頼りの世界なのです。

緊縛は上手くても導き方が下手な人は沢山居るでしょう。緊縛を含めた性戯が大事な愛好家も多いですし。

しかし導き方が上手くて緊縛が下手などという人は存在しない筈なのです。



それらの事を踏まえた上で、初めて(一度きちんとした関係を築いてしまったら)縄などなくてもSMは出来る…と言えるのです。


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