自動車雑誌CARBOY主催のドリフトコンテストで頭角を現し、初代グランドチャンプとなった後に坂東正明率いる坂東商会に入社し、1991年よりレーシングドライバーとしてデビューした。
デビュー当初は「ポストドリキン」とも呼ばれ、横浜ゴムの開発ドライバーを務めていた土屋がブリヂストンに移籍した際は、その後継ドライバーとして織戸が抜擢される。
全日本GT選手権(JGTC)には1996年より参戦し、最初はGT300クラスにてシルビアを駆り、翌1997年にはシリーズチャンピオンに輝いた。
その後、2000年にはGT500クラスに上がり、最初は土屋エンジニアリングより参戦し、2002年サードに移籍。
2003年は第7戦にてGT500初優勝を飾った。
2004年に再び土屋エンジニアリングに復帰。
2005年には開幕戦にて優勝を飾った。
> MSC(以下省略)
バイクやクルマといったモーター関係に興味を持ったのはいつ頃からなのですか?
織戸(以下省略)
僕は田舎に住んでいたから、男の子はみんな乗り物が大好きでしたね。
僕も例外ではなく、乗り物が大好きでした。
そのなかでもクルマが好きで、トランザムといったアメ車に特に興味を持っていましたね。
僕らが小さい頃は、アメリカのドラマが日本で流行っていて、それでアメ車に魅了されていました。
日本のドラマでも当時は西部警察っていうのもあったけど、アメリカのカーチェイスものっていうのが小さかった僕にはあこがれでした。
その頃家の近所に、トランザムに乗っている人がいて「すごくカッコイイな」と純粋に思っていました。
小学校の頃、兄貴のおさがりの自転車に乗っていて、それを毎日磨いていましたね。
あるとき親父に「自分の自転車が欲しい」と言ったんです。
滅多にモノを買ってくれなかった親父ですが、そのときはその日に自転車を買ってくれたんです。
それまで僕はモノを大切にしていたからだと思うのですが、すぐ買ってくれたことが嬉しかった。
本当に嬉しかったのを今でも覚えていますよ。
そんな感じで周りにいた友達と自転車に乗って遊ぶ、いわば普通の少年だったんです。
> レーサーになりたいと思ったのは、いつ頃だったのですか?
小学校2年生のときですね。
> その頃から速く走りたいという気持ちを持っていたんですね。
速く走りたいとかは、まだ思っていなくて「レーサーはカッコイイ!」と単純に思ったんです。
当時、松本恵二さんがキャビン、星野和義さんがラークといった形で、レーサーがテレビのコマーシャルにも登場していた時代で、レースの番組もテレビでやっていた時代でした。
自然とそういうのを見ていたから、小さい頃はパイロットかレーサーになりたいと思っていました。
そんな感じだったから、小学校3年生の文集には「将来の夢はレーサーの英雄になりたい」と書いていましたね。
レーサーになりたいという夢は、テレビだけでなくマンガの影響もありました。
> やはり「サーキットの狼」ですか。
僕のなかでの一番は「グランプリの鷹」ですね。
その頃は授業中にレーシングカーやクルマの絵を描くような子供でしたね。
> 今でもバイクは好きだと思いますが、当時もクルマだけでなくバイクにも興味があったのですか。
小学校高学年くらいからは、兄貴がバイクに乗っていたということもあって興味がありましたね。
エンジンをかけさせてもらったり、またがせてもらったりしていました。
中学校に入ったくらいではかなりバイクという乗り物にも興味がありました。
そういったことからも自転車は何台も改造したりして乗っていました。
でもちゃんとしたロードタイプの20段変速といったものではなく、ママチャリを改造したりしていましたね。
色を塗ったり、一杯ライトを付けたりして……。
まさにそれはトラック野郎ゴッコですね。
でもそれだけでなく、モトクロス仕様といって、モトクロスの自転車は買えないから、ママチャリの部品を全部外して、それっぽく作ったりして遊んでました。
それに兄がいたからお下がりの自転車とかをもらっては、スポーツタイプの自転車にママチャリ自転車の前輪を付けてホットロッド仕様の自転車を作ったりもしてましたね。
それは当然前ブレーキは使えませんでしたが……。
> バイクはお兄さんからの影響ですか。
バイクは改造してどうこうということは思っていませんでしたね。
ただ小さい頃から身近にあったので、バイクに乗れるようになったら、ちょっとバイクにハマっていた時期もありました。
でも兄が4輪免許を取得して、スカイライン・ジャパンターボを購入したんです。
車高を下げて結構カッコ良く仕上げていましたね。
それで色々なところに走りに連れて行ってもらいました。
僕が中学校くらいのときに、首都高に行ったり、湾岸に行ったり……。
その頃はタイヤをハの字にして太いタイヤを履いているクルマばかり、兄の周りに集まっていましたね。
> 自分でエンジンの付いたモノを手に入れたのはいつ頃ですか。
高校に入って、僕は部活をやっていたのだけれど、僕らの高校時代っていうのは3ナイ運動っていうのが盛んだった頃で、それでも、一応現付免許を取得しました。
案の定3日で免許を取得したことがバレて、親を呼ばれて停学になって免許を没収されて……。
3ナイ運動っていうのは、免許(バイク)は「取るな・乗るな・買うな」って奴ね。
だからその頃だよね、バイクだったけどエンジンの付いたものを手に入れたっていうのは……。
具体的に言うとスズキのRG50Eというバイクだったんですよ。
それを色々と改造してね。
その後に乗ったのが、RZ50。
そんなのも改造して走りまわっていたんですが、50ccだとつまらなくなってきて、たまたま250ccのRG-Γ(ガンマ)を安く譲ってくれるっていうので、RG250Γの初期型を買ったんです。
それで峠とか首都高とかそのバイクで行ってましたね。
> ちなみに部活は何をやっていたのですか?
野球を小さい頃からやっていたので、中学校までは野球部に入っていましたね。
高校に入ってからは、当時の野球部というのは坊主(丸刈り)にするのが規則だったんですけど、どうも坊主頭にするのは嫌で、野球部には入りませんでした。
だけど何か運動部に入っていたくて、バスケット部に入りましたね。
だけどやっぱりバスケは僕の肌には合いませんでした。
それから夏の甲子園の予選を応援に行ったんですけど、そのグランドにいる選手が異常にカッコ良く見えて、そこでまた野球部に入りましたね、もちろん坊主頭にしてね。
だけどヒザを怪我してしてしまって、結局高校2年生の途中で野球はやめてしまったんですけど、ね。
> バイクからクルマへ……その機転というのはいつ頃ですか?
高校3年生の時に取り上げられていた免許を返してくれといったんですよ。
それはどうしてかというと、当時からオレはレーサーになると決めていたから。
だから担任に「レーサーになるんだから、免許を返してくれ」とストレートに言いました。
でも担任は「そんなの無理だ」と突っ返されて、でもオレはそこで負けずに「それでもレーサーになるためには免許は必要だから返してくれ」と言ったんです。
そうしたら担任は「その気持ちを作文に書いて来い。
そうしたら校長先生に持っていくから」と言われました。
オレは書きましたよ、延々10枚くらい書きました。
そうしたら他の人には内緒で免許を返してもらいました。
> ということは、小学校2年生のときから、「レーサーになる!」という夢は持続していたんですね。
でも当時だって本気で「レーサー」になんてなれっこないと思っていたから、色々な他のことをやりましたよ。
バンドをやってみたりサーフィンをやったり……。
とにかくバンドをやってプロのロックンローラーになってそれで稼いでレーサーになろうだとか、サーフィンでプロになってそのお金でレーサーになろうとか、考えていましたね。
> 常に織戸さんの頭のなかには「レーサー」というものがあったんですね。
> MSC(以下省略)
レーサーになるという夢を持った織戸さんは、少年時代から人前に立つということにはまったく抵抗なかったということですが……。
織戸(以下省略)
そうですね、とにかく人前に立つことが大好きでした。
高校の頃は学級委員とかもやりましたよ。
それは僕が通っていた高校では、卒業式のときに壇上で学級委員長が代表で卒業証書をもらえるという役があったからなんです。
卒業証書を壇上でもらえるのは学級委員長だけだったんですよね。
高校2年生の卒業式でそれを見て、それがやたらカッコ良く思えてね、それだけのために学級委員長に立候補しました。
そして晴れて学級委員長になりました。
だけど僕は学級委員長会議というのに一度も出席しなかったために、僕のクラスだけ女子の副学級委員長が壇上で卒業証書を受けとることになっちゃったんですよ。
意味なかったですね。
ちょうどマッチ(近藤正彦さん)がレーサーになった頃で、僕もアイドルになれば、レーサーになれるのかと思って、アイドルのオーディションも受けたりして……。
とにかく何かやる行動の先には常に「レーサー」というものがありましたね。
> クルマに乗るきっかけとなったのはどんなことだったのですか。
クルマは、高校3年のときに免許証を返してもらってから、すぐに免許を取得しに教習所に行きました。
それまではバイクにばっかり乗っていたから、実際にはクルマに興味が無くなりかけていたんですよ。
根底には4輪のレーサーを目指していたという部分はもちろんあったのですが、その頃実は2輪のレーサーを目指していたりしたんですよね。
やりだすと一直線なところがあるからね。
だからクルマの免許は取ったけど、その頃の僕はバイクばっかりでしたね。
> 18歳から少しの間は、バイクにのめり込んでしまったのですね。
20歳までは、バイクとサーフィンに明け暮れた毎日でした。
そんな感じだったので、湾岸地帯の走り屋としてバイクで走ったり、色々な峠や走り屋スポットと呼ばれた場所にも遠征に行ったりしました。
しかしこんなことをやっていても上にはいけないと思い、筑波サーキットでノービスのライセンスを取って走ったりもしました。
しかし一緒にサーキットに走りに行ってくれる友達もいない。
そんなことをやりながらも「つまらないな……」と思うようになっていたのも事実。
ちょうどその頃、僕は自動車整備の専門学校に行っていたのですが、学校で土屋圭市さんの峠のビデオを見たんですよ。
このビデオを見たときの衝撃はハンパじゃなかったですね。
「何だ、これは……」と正直思いました。
それまで頭から抜けていた4輪というものが甦ってきました。
初めて見たドリフト……それから僕のなかでクルマ一色となりました。
> 最初に手に入れたクルマは何だったのですか。
最初はZ31でしたね。
そのクルマで湾岸とかにも走りに行きましたが、どちらかというと普通に乗っていたという感じでしたね。
でも土屋さんのビデオを見てからは、ハチロクに乗り換えました。
ハチロクを購入した日に「デフ」を組んで走りに行きました。
正直そのときは「デフを組めばドリフトは出来る」と簡単に思っていましたね。
でも案の定ぶつかって……。
損傷はフロント回りだったので、解体屋から部品を調達してすぐ直したんですが、それから本当にクルマでの「走り」という部分にのめり込みましたね、本気で……。
> それが20歳くらいのときだったのですね。
20歳ちょっと手前くらい前だったかな。
そのハチロクは黒・銀のレビンでした。
あの頃は高かったね。
ひょっとしたら新車より高かったんじゃない?
> たしかその当時だと思うのですが、「ハチロクに乗って速い奴が千葉にいる」っていう噂を聞いたことがありました。
それはやはり織戸さんだったのですね。
その頃の僕はちょっとキレていたから……たぶん、そうでしょう。
走り始めの一発目で僕はハチロクでクラッシュしてしまったから、みんなが走るスポットではなく、裏方で練習しました。
ここで練習してから表の舞台に行くんだと、自分のなかでくだらないストーリーを決めて練習をしました。
当時目立って走っていた奴らは、チームを組んだりしていましたが、僕は一切そういったものには入りませんでしたね。
2輪でやっていた頃の仲間だった奴らでしたが、僕はチームとか組むのが、当時好きではなかったのです。
練習といえば駐車場とかでやりました。
その頃僕の友達がジムカーナをやっていたのでそんな仲間とパイロンを並べて8の字をやったり、タイムを計ったりして、とにかく練習しましたね。
それでそこからジムカーナにもハマって、働いていたところもジムカーナショップに転職し、ジムカーナの競技にも出場するようになりました。
> それが4輪レーサーへの事実上の第一歩だったのですね。
ジムカーナは最初ダメだったけど、何度か出場するようになってからは何度も1番を取るようになって……そうなると今度はジムカーナに飽きてしまって……まだ若かったから気持ちのなかでは「もっとハデにかましたい!」という気持ちが沸々と出てしまったのですね。
そうなると今度は、正式に走り屋デビューですよ。
当時乗っていたハチロクを、車高短にしてマフラーを換えて……と、そういったことで手を加えていってクルマも走り屋仕様と呼ばれるものになっていきました。
> タイヤとかはどうしていました?
ジムカーナっていうのはSタイヤでやっていたので、僕はみんなが使い古した山がないようなSタイヤをもらってきて、そのタイヤで色々なところを走りましたね。
だからそのせいもあっていつも速かったですよ、僕は。
当時の走り屋はまだ廃タイヤしか履いていない時期だったせいもあって、そんななかでSタイヤを履いてドリフトをするというのは、圧倒的に速かったと思います。
> でもSタイヤでドリフトをするということは、勢いも必要だし現在のドリフトの流れに近いものがありますよね。
当時の僕のドリフトは、角度などはあまり付けていませんでしたが、スピードはもの凄かったと思いますよ。
その頃の一般的なドリフトといえばシフトロックだったのですが、僕はジムカーナをやっていたので、サイドブレーキとかも使っていましたね。
クルマを走り屋仕様と呼ばれていたものに換えた頃、湾岸地区のメインコーナーに対して「裏のギャラリーコーナー」というものがあったんですよ。
僕はそこからスタートしました。
その裏のギャラリーで僕がヒーローになってきた頃に、ちょうど「CAR BOY」という雑誌が行っているドリフトコンテストがあって、その頃東京に住んでいる奴と知り合いになり、そのドリコンに出場することになりました。
その反面、サーキットのライセンスを取得したり、たまにスポーツ走行とかをしたりしていました。
> カーボーイドリコンに出場したとき、織戸さんはハチロクでしたよね。
S13とFC3Sの3台で出場してクラス優勝に輝いたのがドリコンのデビュー戦ですね。
その優勝がきっかけで、雑誌でも大きく取り上げられてもらい、編集部(CAR BOY)にも遊びに行くようになりました。
その後で僕も180SXを購入してシルバーにカラーリングも変更し、そこそこ改造して乗り始めました。
> その後にもドリフトコンテストには出場しなかったのですか?
たまたま前回3人で出場したうちのひとりが海外に留学、もうひとりのクルマは壊れていて出場出来ないという感じだったのですが、僕は180SXを買ったばかりだったので「だったら僕ひとりで出場して良い?」と聞いてひとりで出場しました。
> それが筑波サーキットで行われたカーボーイドリコンだったわけですね。
そう、その大会でも優勝しました。
その後は「グランドチャンピオン大会」という最終戦があって、これは1年間で誰が一番なのかを決める大会。
それがカーボーイドリコンにおいても最初の全国大会でした。
そこで優勝し「初代チャンピオン」の名声を手に入れました。
そのときチャンピオンになると中古車がもらえるという企画もあって、その賞品としてハチロクをもらい、僕はレースをやりたかったから乗っていた180SXも売って部品を購入してレースをやろうと思いました。