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きゃああ、と甲高い声が王宮内に響いたのは、件のメル幼児化事件が起きてからほんの数時間後の事だった。私はあの後二人と別れてやり残した侍女の仕事を終えて、片付けと称して使った道具を抱えて廊下を歩いているところだった。

この片付けが終わったら外の仕事から帰宅したらしいメルと合流して暫く一緒に行動すること、とルカに言われていたのでメルのところにいくつもりだったのだ。その途中、廊下の先で聞こえた悲鳴に思わず手に持っていた道具をばさりと足下に落とした私はびっくりして目を見開いた。

たたっと走って廊下を進む。曲がり角を曲がってその先、隣の建物へと続く渡り廊下の窓の傍。そこにうずくまる見覚えのある女性の姿を見つけて私はすぐに「アンナさん!」と声を張り上げた。


「どうしたんですか!?」

「…、し、しのさん、」

「何があ……、うで、が…」

「だ、だれかが…!いきなり…」

「…え?」


慌てて駆け寄って顔を覗き込むように声をかけると、右手で抑えるように抱えている左の二の腕からぽたりと赤い液体が滴るのが見える。ぽたぽたと床に痕跡を残して行くそれは、間違いなく血液だった。

そして震えながら指を指したアンナさんの指先は、窓の外。「誰かが、いきなり斬りつけてきて、それで、」と震える声で話すアンナさんに、私はひとまず持っていたハンカチでその腕を覆った。


「医務室に行きましょう、立てますか?」

「ま、まだ近くにいるかも…!」

「そ、…っそう、ですよね…えっと…」


奇しくもこの時間この付近に人通りはなかった。いやだからこそ狙われたのかもしれない。うずくまるアンナさんを見つけて最初によぎったのは、ここ最近多発している王宮内での通り魔の、事件。事故というには、あまりにも件数が多すぎた。

最初は確かに誰かのちょっとしたミスのような気もしていた。けれど最近それは聞く話に寄るとよっぽど過激化していて。これを事故だというにはあまりにも、多すぎる件数だったのだ。先日ルカもリーサにそれを確認しに行き、そして私にもくれぐれも気をつけるようにとお達しが来ていたのに。

まさかラビが生活をする空間でもついにおきるなんて、と。ぐっと患部を止血するために強く縛ったそこを見下ろして「人を呼んできます」と立ち上がった私はここから一番近い知り合いの居る場所を思い浮かべる。

さっきまで掃除していたのは、ルカの私室だが、五省の私室から道具を保管する倉庫までは多少離れている。だとすれば一番近いのはルカの執務室になるだろうけど、ルカ以外でもいいのだ。とにかく人を呼んで、アンナさんを保護してもらって、それからルカに報告して王宮を捜索、それが一番いい手だてかもしれない。

少し行けば衛兵がいるだろうし、外に向かえば警備の人も居る。どちらにするか立ち上がって視線をさまよわせた瞬間、ふらりと真後ろで揺れた影に私は不思議に思って肩越しに後ろを振り返った。


「――ほんっと、能天気な人」

「――…っ、!?」


振り返った肩越し、絡んだ視線が、私の知るそれとは想像のつかないほど鈍い色を灯していることに、思わず息をのんだ瞬間、その頭上で鋭いヒカリを発した刃の切っ先を見てヒッと喉の奥が嫌な音を立てた。


「やだなあ、それがシノちゃんのいいところなんだよ?」


それが刃物であると認識するよりも速く、振り下ろされたそれが私の身を一直線に狙うのだけがスローモーションのように見えていた空間で、唐突に響いた気の抜ける声。そしてビリッと目の前で弾けたのは、目に見えない薄い膜だった。

そして目前で散るのは、長い長い、支子色の髪。


「…っ、リーサ!!」

「いやあ、こうもあっさり素性を明かしてくれるなんてやりやすいったらないよねえ」

「ッ、お、まえ…っいつから!」

「バカだなあ。いつからって、ずっとだよ。調べ始めりゃすぐわかったよ。だって君と私はおんなじ『匂い』がするもん。ねえ、ホントの狙いはシノちゃんじゃないんでしょ?」


私を庇うように目の前に、どこからともなく現れて目の前に佇むリーサは、今まさにその私を襲おうとしたアンナさんをいつもの笑みで見つめて首をかしげた。一人状況が理解出来ていない私は思わずその場に座り込むと二人を見上げて困惑した声を漏らす事しか出来ない。

それでも淡々と話をしていく二人は一度距離を取ると、普段の優しい笑みを消したアンナさんが殺気を放ちながらリーサを睨みつけた。


「まさか自分を傷つけてシノちゃんつるとはね。人の優しさ利用して相手を傷つけようなんて、ホント最低〜」

「どの面下げて、それをアンタが、」

「念のために聞いてあげるよ。誰が狙い?私?ルカさん?その為にシノちゃんを囮にしようって思ったの?ねえ、答えに寄ってはさあ、」

「…、」

「――手加減出来ないかも」


すっ、と一歩、そこから踏み出したリーサの声が一瞬低くなった途端、目の前から姿を消したアンナさんに私は片手で口を抑える。何が起きているかわからない。わからないけれど、アンナさんが今この場所で敵であるということだけはわかった。そして恐らく、この王宮で怒っていた全ての事件の、首謀者。

そう思った瞬間、ふっと後ろに感じた違和感に私は背後を振り返る。そこに音も無く現れたアンナさんを視界に捕らえた時には既に、リーサの腕が私の顔の横をよぎった。


「だから、シノちゃんばっかり狙うなんて馬鹿な真似、」

「バカは、どっちだ?」


その腕が相手の首を狙う。瞬間、弾けるようにリーサの腕があり得ない方向へと飛び跳ねたのを視界の端に捕らえた私は思わず悲鳴に近い声でその名前を叫んだ。


「ずっと、ずっとずっとこの時を待ってた!!私たちを裏切ったお前を殺す時を!!こんなところで死んでやるもんか!!お前が裏切ったあの後が、どれほど地獄だったか、お前にも――」

「リーサ!!」

「――――ああ、」


左の、腕。

肘のすぐ上当たりから、すっぱりと切りなされて宙を舞ったそれが、ごとりと音を立てて床におちる。それを横目に片手で腕を抑えたリーサが一瞬凍るような視線を向けたのを私は唖然としたまま見つめることしか出来なかった。


「お前にも思い知らせてやるんだ!!」


怒鳴るように叫ぶアンナさんの声は、もうあの優しい声なんかじゃない。びりびりと肌に感じる殺気が、その怒りを物語る。何の話をしているのか、私にはわからない。わからないけれど、彼女が『ずっと』、リーサを敵視していたのだけは、よくわかる。

切り落とされた腕を見て一瞬無表情だったリーサはすぐにその口元を歪めると「ああ、」とさっきと同じように溜め息に近い声を零した。


「腕なくなっちゃったなあ……ああ、よかったね、成功だよ、君の目論み」

「っ、り、…さ?」

「ほんとうに、いやなことをおもいだしたよ」


ほんの少し幼いような、言葉遣い。伏せたリーサの表情を伺えない。するりと腕を抑えていた手を離したリーサは今度はその手で左の肩の付け根を掴むと、ぐっとその歯を食いしばった。

瞬間、ぶちり、と何かを引きちぎる音。そうして完全に外れたリーサの肩から先のパーツを、彼女はまるで感慨もなにもない表情で、目の前の相手に投げつけた。









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