*2024年3月18日 14:04σ(・∀・)ノ


 杉元が死んだ。
 肺病だった。初めの頃はコンコンと咳いているだけだったのが、日が経つにつれてどんどんひどくなっていった。肺の細胞を削いで吐き出そうとするような咳をしていた。
 杉元は「なんでもない」「ただ風邪をこじらせただけだ」と平然と振る舞おうとするが、さすがに数日も続くと心配が勝った。「医者に診てもらおう」と言うと、杉元はひどく困った顔をした。「でも」と言う。何が「でも」なのか。私は怒った。そうしなければ杉元には響かないと思ったから、なるべく強い言葉を選んで怒った。杉元は、こと医者に診てもらうことに関してはずっと頑固だった。
 そうすると杉元はほとんど泣き出しそうに笑って、「アシリパさんがそう言うなら」と言った。
 杉元は肺病と診断された。医者には一人で行くと言われたので杉元だけで行った。感染性のものではない――すなわち、結核ではない、ということだったが、杉元は私たちのコタンから少し離れたところに小さなチセを作った。「咳をしていたら誰だって伝染病を疑う」「疑わせて、嫌な思いをさせたくない」と言っていた。私はこれには怒れなかった。私たちが、杉元が肺病だということで差別すると言うのか、と思ったが、しかし確かに伝染病を疑っている者はいた。私が杉元に見舞いに行くと嫌な顔をする者は確かにいて、皆が皆、見舞いに快く送り出す訳ではなかった。それは信頼とか信用とか、そういう言葉で簡単に片付けることのできないことだ。伝染病は集団の死に直結するからだ。
 そうして、杉元は死んだ。
 刀でも弾丸でも死ななかった不死身の杉元は、身を巣食う病魔には勝てなかった。
 生前、死んだらチセごと燃やして欲しいと言われていたので、私は杉元の死を確認してからチセに火を点けた。
 冬の終わりの空気に、火の巡りはとことん遅かった。遅かった分、私はその日の燃えていく様を見て、ゆっくりと弔うことができた。

 そうして、杉元のことについて私に残された最後の仕事は、その訃報を知人に伝えることだった。
 幼馴染みという女性には迷ったが、杉元が以前、もう今後の人生は交差しないと思う、というようなことを言っていたので送らなかった。谷垣には送った。白石――は現在どこにいるかわからなかったので送れなかった。夏太郎にも送っておいた。
 そしてコイトにも訃報を送った。不思議なことに、杉元とコイトは時々文を交わしているようだったのだ。
 それらの手紙を出し終え、私はやっと一息ついた。杉元とは人生の半分を一緒に過ごしたのだ。私は自分の半身を無理やり引きちぎられたような、そんな喪失感と闘わなくてはならなかった。


「――すまない、遅くなった」
 なので、そう言ってコイトがコタンにやって来た時、私は心の底から驚いてしまった。
 まず、誰よりも早くやってきたのがコイトだったからだ。コイトへは、確か東京の住所に送ったのだ。投函してからまだ五日しか経っていない。
 北海道の人間ならまだしも、本州の人間が、ただ弔問のために来るに小樽は遠すぎる。東京の邸宅に訃報が届いてすぐにやって来なければ、こんなに早くたどり着くことはできない。コイトの道のりを考えると、むしろ早すぎる弔問だった。
 それに、もう全て済ませてあるから弔問は不要と書いていた。それでもコイトが杉元を弔いたがったというのは、やはり不思議な関係であると思った。
「一人か? 部下は連れてきていないのか」
 そう尋ねるとコイトは苦い顔をした。
「私は要らんと言ったのだが、……どうしてもと言われて。部下は小樽の旅館に置いてきた。ここには私一人だ」
「そうか。宿はあるのか」
「いや……。……杉元の家は空いていないのか」
「もう燃やしてしまった。ここに来る途中、燃やしたチセの残骸があっただろう。あれが杉元のチセだ。死んだら燃やせと言われたので燃やしたんだ」
「そうか……」
 確かコイトはもう中佐だったはずだ。手紙の宛名にそう書いた。けれど、目の前にいる男はなんとなく頼りなく見え、出会った頃と変わらないように見えた。
 出会った頃は、たしか少尉だったか。むしろあの時の方が溌剌としていたようにも見える。今はなんだかやつれている。それは別の言い方で言えば、無駄な脂肪が落ちて精悍になった、とも言える。
「私のチセに泊まると良い。杉元の話をしてやる」
 そう言って家に招いた。食事の最中に杉元の話をした。なぜ死んだのか、なぜ家ごと燃やしたのか。
 コイトは静かに聞いていた。
 杉元の話をしてやると言ったのに、簡単な話しかできなかった。杉元とコイトの関係がわからなかったので、何を話せばいいのかわからなかったのだ。布団を敷いてやると、コイトはすぐに寝てしまった。長旅の疲れが祟ったのかもしれない。寝息が深くなったことを確認して、私も寝た。
 私はコイトとは浅い関係だ。あまり会話らしい会話もしていなければ、友人と名の付くような関係でもない。知り合いとか知人とか、そんな名前が付くような関係でもない。わずかに人生が交差しただけの人間。それが杉元というただ一点で繋がり、同じチセでこうして眠っているのは不思議なことだった。


 ――朝。
 目が覚めると、コイトの布団はもぬけの殻だった。コイトの靴もない。いつの間に起きて出て行ったかわからなかった。
 外に出る。雪の結晶の混ざった空気がシンと肺に積もる。冷たい空気を吸うと、杉元はすぐ咳いて吐き出してしまっていた。杉元の弱った肺は、冷えた空気をすぐ吐き出そうとしてしまうらしい。私は杉元が咳をする時よりも、咳をした後に空気を吸う時の方が怖かった。息を吐くだけなら人は死なないが、息を吸わねば人は死んでしまうからだ。咳をした後に息を吸う音で、私は杉元が生きようとする強さを測っていた。
 雪は浅く積もっている。ひと撫ですれば払えるほどの薄さだ。
 杉元のチセに行くと、やはり、コイトはそこにいた。チセの近くの丸太に座って、残骸になったチセを見ている。こちらに背を向けているので私に気付いていないのだろう。「コイト」と呼ぶ。聞こえていない。わざと足音を立てて近くに寄ると、鯉登はビクッと身体を震わせ目を開いて私を見た。
 私を見て、一瞬泣き出しそうな顔して――ふにゃっと笑った。気が抜けたような笑い方だった。
「なんだ。アシリパか。……っと、すまない。レディーの前で吸うのは不粋だな」
 コイトは懐から取り出したマッチで、煙草に火を点けるところらしかった。
 けれど火は点けず、そんな気障なことを言いながら一度咥えた煙草を箱に戻した。
「気にするな。吸えばいい」
「いや、不要だと気付いたのだ。必要がない」
「普段は必要があって吸っているのか?」
「まあ……。得も言われん事情というやつだ。常同効果とも言うべきか……縦社会においてこれは一種の情報取得のすべと言える。ただここに来てまですることではない。慣れほど恐ろしいものはないな」
「けれど煙は和人にとって神聖なものなんだろう。杉元が言っていた」
 そう言うと、コイトは一瞬、残骸になったチセを見やった。そうして私に向き直ると、再び懐からマッチを取り出した。
「……それもそうだな。一本、失礼する」
「ああ」
 コイトは煙草を口に咥えてから、マッチに火を点けた。そうして煙草の先に点火させる。マッチの火を振って消す姿すら洗練されて見えた。地位のある和人とはこういうものなのだ。マッチの先を雪で消火させようとする、雑な和人の杉元とは全く違った。
「……あ。そういえば、アシリパは杉元の子を宿していないのか」
 コイトは煙草の煙を私から遠ざけるように持ちながら、まるで当たり前のように尋ねた。私は面食らった。そんな事実は全くないからだ。
「私と杉元はそんな関係じゃない。万に一つの可能性もないぞ」
 そうきっぱり伝えると、コイトは意外だとでも言うように目を見開いた。
「驚いた。そうなのか……私は、アシリパだったら良いと思っていたんだが」
 私はそう言われて、どんな気持ちでいたら良いかわからなかった。確かに、周りからそう言われ続けたのは事実だった。フチもそういったことをよく言っていたけれど、私と杉元の間に男女の甘さなどは芽生えることはなかった。
 生きるために生きる、その相棒として生きた。ただそれだけだった。
「コイト。それは私と杉元、どちらにも失礼だ」
 コイトはハッと気付いたように息を飲み、据わりの悪そうな顔をした。バツの悪そうな、苦虫を噛み潰したような顔だった。
「すまない。そうだよな……。浅慮だった。申し訳ない」
 コイトは煙草を吸い続けた。
 吐き出した息ともつかないような煙草の煙が、狼煙のように、焚き上げのように、空に一筋の線になって昇っていく。それは天に届く前に消えて行った。
 コイトは夕方にはここを発つと言う。私はコイトの横に座った。それまで付き合うつもりだった。
「アシリパはいくつになったのだ」
「もう二十も半ばだ。大人のアイヌだ」
「そうなのか。大きくなった。見違えたはずだ」
「そろそろ嫁げと言われる。いい年だからと」
 先ほどの、杉元の子を宿していないのかというのも、私がいわゆる適齢期であるからこそ出てきた言葉なのだろう。
 コイトは力なく笑った。私の言葉に含まれる皮肉に気付いたようだった。
「コイトは嫁をもらっていないのか。お前もいい年だろう」
 コイトは難しい顔をした。何と答えればいいのか迷っているような顔だった。
「そうだなあ。何度か話はあったが……どうも上手くいかなくてな。と言うか、前向きになれなかったと言うのが近いのかもしれん。……杉元にもそれを言ったことがある。そう言った時、俺にも良い相手がいるんだからお前もそろそろ身を固めろ、と杉元に言われたんだ。だから、杉元のその良い相手≠ニ言うのがアシリパなのではないかと思ったんだ」
「……そうだったのか」
「そもそも、杉元に良い相手≠ヘいたのか? アシリパじゃないと言うのなら、私には全く見当がつかん」
「いや、いなかった」
「そうなのか?」
「ああ」
「……本当に?」
「そんな相手がいたら私が世話を焼く必要はない。いなかったから私が訃報を送ることになったんだ」
「そうか、確かにそうだ。……はは。どうやら私はずっと、騙されていたらしいな」
 騙されていたと知って怒るでもなく、コイトはむしろ呆れるように笑っていた。悲しいとも安堵ともとれるような、複雑な表情だった。杉元は四十に近かった。ということは、コイトもそのくらいだろう。四十も近くなると感情の出し方がちぐはぐになってしまうかもしれない。杉元もこういう表情をよくしていた。本人は笑っているつもりだろうけれど、見ているこっちが悲しくなるような表情をする。この二人はどこか似ているのかもしれない。あるいは、似てしまったのか。

 それからは、ぽつぽつと取り留めのない話をした。


「煙は神聖なものと言ったな。東京に行った時、浅草寺には参ったのか」
「センソウジはわからないが、頭に煙を当てたぞ。賢くなるらしい」
「それだ、それ、それ。賢くなったか?」
「わからない。けど白石は賢くなったかもしれない。王様になったらしいから」
「……何の話だ?」

「しかし北海道は寒いな。東京はまだ、雪の降る気配もない。北海道は何か変わったことはあるか?」
「そう変わらない。ただ、ニシンは獲れなくなってきている。人も増えた。もう人の足の踏んでいない土地はないのではないかと思う」
「開拓は人間のサガだな。新たな土地と思えば、踏みしめねば済まんのだ」
「でもリスはたくさんいるぞ。夕方までに捕まえれたら食べさせてやる」

「そういえば、杉元の好物は死ぬまで変わらなかったのか?」
「ああ。干し柿とカワウソの脳味噌だ。でも、最近はキャラメルが上手かったと言っていた。西洋のものなんだろう。どこで買ったか知らないが、一粒だけ、どうしても食べられんと言って大事そうに懐で溶かしていた」
「……キャラメルか。……ああ。そうかもな。あれは旨い。……知っていれば、持って来てやったのに」
「旨いのか? 食べてみたかった」
「アシリパは甘いものは好きか」
「ああ、好きだ。たまに、飴なんかを街に買いに行く。甘いものは杉元も好きだったからな」

「コイトの方はどうなんだ。階級も上がったんだろう」
「ああ。東京で、本部にいる。最近は函館の実家にも帰れていない。朝鮮で独立運動が起こっている。難儀だ。どうしようもない……。軍の人間が言うのも何だがな」

「あっ! あれはホトトギスか?」
「違う。よく似ているが、あれはトッピだ。センニュウ。ホトトギスに似ているから、エゾホトトギスと呼ばれたりもする。間違えるのも無理はない」
「んー……変わった鳴き声だ」
「渡り鳥だから、この時期にいるのは珍しい。南下し損ねたのかもしれない」

「東京は楽しいか」
「どうだろう。いろんなものがある。流行りものはどんどん移り変わっていく。楽しさは、どうだろうな。あそこにずっといると、何が新しくて何が古いのか、すっかりわからなくなってくる」


「……そうだ、アシリパ。あれは……杉元は遺書を残していたか?」
 会話の途中。何気なく尋ねようとしながらも表情が強ばるコイトを見て、これはコイトが一番聞きたかったことなのだと気付いた。
 首を振る。杉元は死んだ後に向けての言葉を遺してはいなかった。
 ただ自分とチセを一緒に燃やせと、それだけだった。
 そう伝えるとコイトは微笑んだ。遺書はないのに、なぜか満足そうな微笑みだった。
「そうか。では杉元は、遺言を残す必要もないほど、このコタンで悔いも未練もなく過ごせたのだな。ならば、あいつにとっていい人生だったんじゃないか」
 何の衒いもなくコイトが微笑むので、私は目に涙がしみだしてくるのがわかった。
 私たちコタンの人間が杉元の人生を評価するのと、コイトのような外部の人間が評価するのとでは、意味が変わってくる。
 私は杉元に何もしてやれなかった。医者に診てもらえと促しただけだった。肺に良いと言う薬草も、効果はなかった。
 ゴロゴロと湯が沸いたような音を肺からを出す杉元の「近付かないで」という、その願いを聞くことしかできなかった。
 だから、コイトがそう言ってくれたのが嬉しかった。身体が弱っていく杉元に何もできなかった自分を責めていたから、その評価が唯一の救いのように感じた。
 私が鼻をすすったのを聞いてコイトは笑った。
「驚いた。お前も泣くのか」
 と言って、まるでこの場面にそぐわないような表情で笑った。
 外套のポケットから、コイトはハンカチを取り出した。
 取り出したそのはずみで、何か白く小さなものがポケットから転がり落ちた。
 「あ」と言うが早いか、それを衝動的なまでの早さでコイトはそれを拾った。
 パシ、と手のひらに収め、ギュッと握る。
 ……そして、何事もなかったかのように、コイトは私にハンカチを差し出した。

 受け取ったハンカチを目に当てる。
 ハンカチに涙をしみ込ませながら考える。
 コイトが今、誤って落とした白いもの。
 あれは、骨だった。見間違いかもしれないが、おそらく当たっている。
 あれはきっと杉元の骨だ。白い骨が、煤や土で汚れていた。
 ……コイトは今朝、コタンの誰よりも早く起きた。
 焼け落ちた杉元のチセに行き、崩れた瓦礫を退かし、検分し、燃え落ちた彼の私物たちから、唯一の形見となる彼の骨を探したのだ。
「コイト」
「ん?」
「見つけた骨はどうするんだ。よすがにするのか」
 軍はいつだって死と隣り合わせである。杉元は過去に言っていた。迫りくる死のそばで迷子になっている時、そういう時に心のより所があれば、それが生きるための北極星になるのだと。
 コイトは笑った。初めて出会った頃のような、若くて溌剌とした笑顔だった。
「茶にでもして飲むよ。今日はそのために来たのだからな」




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