コツン、コツン。
職場の自販機コーナーで休んでいると、何かを叩くような音がして、ふ、と窓の外に目を向けた。
・・・雨か。
朝のニュースで見た降水確率60%は裏切る事無く窓を濡らし、程なくして、ザァという耳障りな音へと変わった。
傘、忘れたな。
そんな事を、ぼんやりと思う。
まぁ、帰るまでには止むだろ。
買ったばかりの缶コーヒーを開けず、熱だけを奪いながら、そういえば、と思い返す。
そういえば、初めて逢ったのも雨だったな。
あの日も俺は傘を忘れて・・・
「止む気配が無いな・・・」
黒雲が立ち込める土砂降りな空を見上げ、ぽつり、独白を漏らす。
周りに人は居ず、溜息に似た息を一つ、吐き出した。
もういっそ、風邪を引くのを覚悟で濡れて帰るしかないか、と重い腰を上げようとした時。
「お〜い!」
背後から誰かを呼び止めるような声と足音がした。
前方に人の影は見えず、まさか気付かなかっただけで、後ろに誰かが居たのかと、先程の自分の行動を思い返し、恥ずかしさを覚える。
「なぁ!」
大声にも関わらず、その声の主以外の気配は感じない。
という事は、離れた場所にいるのだろうか?
今度は安堵の息を吐いた。
「なぁ!」
近付いてくる声と気配に、息を潜める。
早く通り過ぎれば良い。
そんな気持ちとは裏腹に、足音は、どんどんと近付き。
「なぁ、てば!」
肩に、ぽんっ、と手が置かれた。
反射的に、その手を振り払うように立ち上がり、振り向いた。
・・・誰だ?
そこには知らない人物が立っていた。
「運動神経、良いんだな!」
振り払われた事を気にする様子も見えず、ケラケラと笑う目の前の奴に警戒心が募る。
「お前、誰だよ」
「オレ?オレは真田信二!」
挙手をするように手を上に勢い良く突き上げて、名前を名乗られた。
何だ、コイツ。
「で?」
何の用だ、という意味合いを込めて返したはずが。
「お前、篠崎渉だろ」
いきなり俺の名前を答えた真田と名乗った奴に、訝しさで眉が寄った。
何で、コイツは俺の名前を知っている?
「傘、忘れたのかよ?」
無言の俺に対し、先程から変わらない、少し苛つくニヤケ顔で真田は続ける。
「放っておけよ」
今、人と話す気分じゃない。
こんな奴が来るより、雨が止んで欲しい。
そうしたら、無視して帰れるのに。
そんな事を考えている俺の背後で、雨は止む気配を見せないどころか強さを増しているようにさえ感じる。
「一緒に帰ろうぜ」
やけに明るい色の傘を片手でふりながら、真田は俺の言葉を無視して、そんな提案をしてきた。
「お前、ウザい」
「はっきり言うな〜。オレだって傷付くんだぞ!?」
「何なんだよ、お前」
「も〜細かい事は良いからさ、さっさと帰ろうぜ」
傘を、ぱんっ、と開いたかと思えば、腕を強引に引かれ、傘と共に、外に連れ出された。
「離せよっ」
近過ぎる距離に嫌悪感が沸き上がり、振りほどこうとするものの、意外にも強い力で、引き摺られるようにして、その場所から離されていく。
「いいじゃん、いいじゃん。ほら、行こうぜ」
何が良いんだ!?
そう食ってかかりたくなったが、面倒になり、諦めて歩を進めた。
それに気付いたらしい真田は、漸く俺の腕を解いた。
「・・・お前、何で、俺の名前を知ってるんだ?」
口から、ぽつり、疑問が零れた。
「え?篠崎、有名じゃん」
何でも無い事のように言われた言葉に驚愕する。
「は?俺が?」
「知らなかったのかよ、オレがビックリなんだけど!」
何が面白いのか、一層、笑い声が大きくなった真田に苛々が募る。
「馬鹿にしてるのか?」
「全然。篠崎って案外、面白いんだな」
「俺は面白くない」
「笑ってみれば?」
「楽しくも無いのに笑えない」
「やっぱ、篠崎、面白いよ」
脈絡の無い会話に疲れて口を閉ざしたが、さして気にならないようで、真田はベラベラと話続けている。
良くこんなに話題があるものだと感心する程だ。
俺が返事をしなくても関係無い。
真田が何を言ってるか、なんて興味も沸かなくて聞き流していた。
元々、俺は人付き合いが得意ではないし、進んで、しようとは思わない。
それよりも、俺は気になる事がある。
「なぁ」
未だ止まる事無く、話続けている真田の言葉を強引に遮って問い掛けた。
「ん?」
「お前、どこまで行く気?」
もう俺の家まで近いが、歩みが止まる気配もない。
「篠崎ん家」
「は?」
思わず、冷たさと低さを全面に出した声が漏れた。
「冗談だって。そんな怒るなよ」
「ふざけんな」
「オレの家、この先なんだよ。この間、たまたま篠崎が帰ってるのを見掛けただけだって」
俺が、あまりの剣幕だったからか、焦燥を滲ませた表情で真田は理由を口にした。
何故、迷いも無く、この道を進めたのか疑問が解けたと共に、見られた事がある事実に寒気がした。
ふ、と気が付くと雨は小降りになっていて、家との距離に、これなら濡れても大して問題は無いと、するり、傘から身を離した。
「助かった、じゃあな」
「あ、おいっ」
礼を言うのは癪に触るが、濡れないで帰れた事が真田のお陰なのは否定できない。
俺は一言、告げ、未だ何か言っている真田を放り、そのまま早足で家へ向かう。
真田が追い掛けてくる気配が無い事に安堵しつつ、今までの日常が壊れて行く予感を感じていた。
それから。
真田は俺を見掛ける度に声を掛けてくるようになった。
気付かなかっただけで擦れ違う機会は、結構、あったらしい。
だが、俺は、ことごとく反応しなかった。
それにも関わらず、毎回、諦めずに声を掛けてくる真田に、どれだけ物好きなのか、と呆れる程だった。
その内に、真田の根気に負け、一言、二言と返すようになって、いつの間にか、互いに苗字を会話に出すようになり、それから暫くして名前で呼び合うくらいに仲良くなった。
人生とはわからないものだ。
あんなに鬱陶しいと思っていた真田が今は、俺の一番になるなんて。
そんな風に信二と親しくなって1年半が過ぎた時の事。
毎日のように逢っていた信二と俺は、暑い夏の日、2人で公園のベンチに座りアイスを食べていた。
「あっついな〜」
「あぁ」
「渉、暑そうじゃないじゃん」
「馬鹿、言え。俺だって暑いものは暑い」
蝉の声が煩いくらいに響いていて、暑さを誇張させているように感じた。
「オレさ〜、鳥になりたいな」
「鳥?」
「うん。あんな風に自由に空飛べたら気持ちよさそうじゃん」
「ふぅん」
ぐったりと体をベンチに預けて信二は笑う。
「でさ、渉の周りでピヨピヨ飛んでやるよ」
「鬱陶しいから止めろ」
「酷いな〜」
しゃくり、しゃくり。
シャーベット状のアイスが咀嚼されていく音がする。
「渉とは、これから先も一緒に過ごせたら幸せだろうな」
「馬鹿か」
信二が、いつもと変わらないニカリとした笑顔を浮かべながら、言葉を紡ぐ。
「オレは渉が羨ましいんだ」
「何、言ってんだ」
「渉って揺らがないからさ〜、オレの憧れみたいなもんなんだよ」
「・・・そうか」
「そうなんですよ」
「・・・信二」
「何?渉」
「アイス、溶けてるぞ」
「うわっ、本当だ!」
なぁ、信二。
俺はな・・・
ガコンッ。
缶コーヒーが床に落ちた音で、はっと我に返る。
無意識に手の力が抜けていたようだった。
「・・・何、やってるんだ、俺は」
独白が口から零れ落ちて耳を揺らした。
信二は、もう居ない。
文字通り、生が消えてしまった。
もう二度と触れられなくなるなんて想像すらしていなかったのに。
あの時、こう答えてやれば良かった、とか、もっと、ああしてやれば良かったなんて、今更ながらに思う。
素直になれず、憎まれ口ばかり口から出していた気がする。
信二が大切だと、ちゃんと伝えれば良かった。
愛してる、なんて。
今、言おうとしたって、もう遅い。
子供で馬鹿だったのは、信二では無く、俺の方だった。
雨の日になると、信二のいつもの笑顔を思い出す。
近くにいるんじゃないか、なんて。
そんなはず、無いのに。
雨の日だって、晴れの日だって、信二を忘れる事なんて一度も・・・。
何年、経とうが、この痛みと懺悔は薄れる事も無く、俺の芯の部分で燻り続けている。
なぁ、信二。
今の俺を見ても、気にするな、なんて、いつものように笑ってくれるか?
抱き続けている疑問に答えは返ってきやしない。
俺は、持っていた缶コーヒーを一気に飲み干し、缶入れに投げてみる。
ガコン、と小さな音を奏でながら、元々あった空缶の中に、捨てた缶が混じったのを見届けて、その場を後にした。
日常に戻っていく為に。
俺の元に、鳥は未だ来ない。