『花咲きて眠る』
まだ生きている。
目覚めと共に自身の生を確認すると、重い身体を引き摺るようにリビングへと向かった。
庭に面した大きな窓のカーテンを開けると、朝の柔らかな日差しが室内を金色に染める。その光に目を細めつつ、ソファの上で甘い香りを漂わせる人程の大きさの花の塊を優しく撫でた。
カサリと音がして幾つかの花が落ち、その下から花弁や蕾に埋まるように青白く透き通った肌が顔を覗かせる。
眠るように閉じられた瞼から伸びる長い睫毛に筋の通った鼻、形の良い艶やかな唇。鮮やかな花弁に彩られた妻は今日も美しい。
床に落ちた花を拾うと、テーブルの上に置いた水を満たした硝子の鉢の中にそっと入れる。
鮮やかなオレンジの花は水面にゆらゆらと揺れて、どこか嬉しそうに見えた。
僕の住む町には奇妙な病が蔓延している。
身体中、至る箇所から花が咲く病。
原因不明の病だが、この町以外での罹患の報告は無いそうで地方病として早々にこの国で認知された。
その治療法は今のところ無く、原因どころか感染症なのかすらも分からないという。故に町の住民は町ごと隔離されている。
僕の家からは見えないが、町を囲むようにバリケードが張られ、地形的にバリケードが張れない所には重装備をした兵士が24時間体制で監視を行っているようだ。
周囲を山や谷に囲まれた、小さな田舎町だからこそ出来るのだろう。
ソファに座る妻の身体から萎れかけた花を幾つか摘むと、洗面所へ行き自分の姿を鏡に映す。
首筋から後頭部に掛けて、地肌が見えないほどにびっしりと蕾が顔を出し、鮮やかな青い花弁を広げているものも少なくはない。
服で隠れている胴体や下半身も不自然に膨らんでいるので、恐らく同じような状態になっているのだろう。
蕾の開いた花が昨日よりも大分増えたのを確認すると、少しだけ身だしなみを整えてリビングで待つ妻の元へ戻った。
この病が確認されたのは2ヶ月程前の事だ。
長い冬が終わり、雪解けと共に草木が芽吹き始めた頃。身体の至る所から花を咲かせた人達が病院へと殺到した。
尋常ではないこの事態に、政府によって迅速に調査が行われたが原因は分からず、治療に繋がるような結果も何一つ出ないまま町は隔離され、今に至る。
個人差はあるが、花が咲いたその患者は数日以内に命を落とすのがこの病の特徴の一つだ。
ある程度症状が進行すると身体が水分以外を受け付けなくなるのだが、それに加え、花が開花するのに必要なエネルギーを人体から吸収する為、急激な栄養失調によって衰弱し、死に至ると考えられているらしい。
実際、比較的初期の頃にこの病に侵された妻も花が咲いてからは、あっという間だった。
蕾が一つ開いた翌日には身体の半分以上を花が覆い、その数日後、瞬く間に全身を侵食した花に埋もれるようにして息を引き取った。
苦痛は無いらしく穏やかな死に顔で、それだけが救いだった。
今でも妻は僕の隣で花を咲かせ続けている。
不思議な事に、花に侵された彼女の身体に腐敗している様子は見られない。
亡くなって一月近く経っているが、少々乾燥してはいるものの肌は白さをくすませる事もなく、ふっくらとした張りを保っている。
微睡むように目を閉じている彼女の頬に触れると、微かな柔らかさが指に返ってきた。
日が高くなった頃、ラジオのスイッチを入れる。
丁度、クラシック番組が始まったらしく、ゆったりとした音楽がスピーカーから流れ出す。
ピアノが独特な旋律を奏でるこの曲は、妻が生前に好んでいた曲だ。
趣味のパッチワークやガーデニングをしながら、彼女がこの曲をハミングしていたのを思い出す。
庭に目をやると春の柔らかな陽射しを浴びて、妻が丹精込めて育てていた色とりどりの花達が瑞々しい花弁を揺らしていた。
妻が死んでからは僕が世話をしていたが、身体が思うように動かせなくなってからは何一つ手入れをしていない。
それでも枯れるような様子はなく、生き生きとしている。
暫しぼんやりと庭を眺めていたが、窓から射し込んでくる暖かな陽射しに瞼が重くなり、無意識に目を閉じるとそのままソファに身体を預けた。
とても心地が良い。結婚したばかりの頃、毎晩のように妻の胸に抱かれ眠っていたが、あの時の温みにこれは似ている。
一瞬、ふわりと意識が浮くような感覚がしたかと思うと、瞼の裏に庭に咲いた野薔薇の実を楽しげに摘む妻の姿が浮かんで見えた。
ふと目を開けると、室内は茜色に染まっていた。どうやら眠ってしまったようだ。
つけっぱなしになっていたラジオはクラシック番組からニュース番組に変わっており、この町に蔓延する奇妙な病について政府の今後の対応等を報じている。
何やら不穏な内容の言葉が聞こえてくるが、これから死にゆく僕にとって最早、関係の無い事だ。
ふと目を向けた窓から見える斜陽した空には、燃えるような赤い光と闇が入り交じり始めていた。
昼間よりも重く感じる身体を時間を掛けてソファから起こすと、キッチンへ紅茶を淹れに向かう。
私は昔から紅茶が好きだった。自身で茶葉をブレンドしたり、様々なフレーバーの紅茶を購入しては妻と一緒に嗜んだものだ。
僕が淹れた紅茶は特別に美味しいと、妻はよく云っていた。
茶葉の入った缶を幾つか棚から取り出すと蓋を開ける。町に閉じ込められ買い足す事が出来なくなった今、缶の底には僅な茶葉が残っているばかりだ。
かき集めて漸く一回分あるかないかのそれを硝子製のティーポットに全て入れると、お湯の中で揺蕩うその姿を暫し眺めた。これで飲み納めになる。
紅茶をカップに注ぐと、リビングで待つ妻の隣へ腰を掛けた。
彼女の花の香りが紅茶の香りに混じり溶け合い、フラワーティーのような香りとなって辺りに漂う。
香りを楽しみながら、蜂蜜をたっぷりと入れた紅茶を体内に流し込んだ。蜂蜜の優しい甘さが、すっかり重くなってしまった身体の隅々に広がっていくのを感じると、ホッとした心地になった。
少しだけ眠い。
目を覚ましたばかりなのに、瞼が重くて仕方が無い。花が咲いてからはずっとこうだ。
そういえば妻もそうだった。
花が咲いて以降、頻りに眠いと口にし微睡んでは目を覚ますのを何度も繰り返していたが、その間隔も徐々に長くなっていた。
そして最後に目を覚ました時、一瞬だけ僕に微笑みかけると再び瞼を下ろし、目を覚ます事は二度となかった。
不意に、身体から一気に力が抜ける。
身体を起こして座っていられず、そのままズルズルとソファにもたれ掛かると思うように動く事が出来なくなった。
手から離れた空のカップが鈍い音を立て足元に転がったが拾う事も、もう出来そうにない。
それでもせめてと、思うように動かない身体を最後の力を振り絞り何とか動かす。上がらない腕を引き摺るように這わせると、隣に座る花と蕾に覆われた彼女の手に自らの手を重ねた。それが止めになったのか、完全に身動き出来なくなったが十分だった。
じきに僕の心臓は鼓動を止めるだろう。それが今日なのか、明日以降なのかは分からない。
瞼を閉じる。
泥のように絡み付く眠気に抗う事が出来ない。もっとも、抗うつもりなど初めから無いのだが。
僕が死んでも、僕の花は妻の花と共に咲き続けるだろう。
いずれ枯れてしまうだろうが、その時が来るまで僕らの代わりにこの家を彩ってくれる筈だ。
『おやすみ』
誰に聞かせるでもなく、そう呟くと一切の思考をやめる。
意識が闇に沈みゆく中、妻の声が聞こえたような気がした。