クソもない

話題:いじめ

寝る前に思い悩んで寝れないので吐きます。

この間教職の授業で、いじめは、「いじめられる側に責任や原因があるのか否か」という内容の議論?があった。
幼小中といじめられる側だった私自身のことを思い返せば、正直なところ、排斥されて当然な人間だったよなと思う。泣き虫だし、頭悪いし、運動が極端にできないし、動きがトロいし、大人しいし、自己中だし。おまけに朝青龍似のぶりっ子(服装が)と来た。気持ち悪くないわけがない。
だから私は自分のことは棚上げにするしかない。自己弁護の仕様がないため。

個人的には、原因は、ある意味双方にあって、いじめられる側のある一定の要素が、いじめる側(加害者)の持つストレスとか或いは羨望とか優越の感情に触れたときに一番起こりやすいんじゃないかと思う。(いじりの延長はやっかいだけど、それは今はおいておく。)
でも、責任を被害者に求めることは、議論する価値もないほどに馬鹿げていると思う。テレビで取り上げられるような刑事や民事の一般的な犯罪でもそうだけど、加害者を擁護して被害者を侮蔑したがるのはなぜなんだ?


ある人の意見に、「大人しい子とか、変わった子とか、無口な子はいじめられやすいから、いじめられない努力をするべきだ」、というものがあった。
私は、それには反対したい。人にはその人のあり方があって然るべきだと思う。
勿論、自分はこれじゃ駄目なんだと思えば変えていく努力をしたらいい。結果がどうであれ、その努力をすることは自由だ。
人は、自分たちと違っているものを嫌うし排斥をしたがるものだから、当然いじめはなくなることはないけれど、「変わった人」は、その排除の目を耐え抜いて、或いは跳ね除けて、我を貫けるだけの強さをもって生きていく道もあると思う。そのほうがよっぽど健康だ。

ありのーままのーっていう歌が流行ったのは、皆捻じ曲げてきたからなのだろうか。何もかも放り出して自分の世界に引きこもって、自分の城を作ることに感動して涙を流すって、そういうことなのか?

教師は、特に小学校の教師は、一人一人の個性を伸ばして、個々の多様性を認める規範になることが、いじめを軽減できる方法なんじゃないかと思うんだよな・・・・。人に危害を加えるものは、別の道を示せば、ものすごい力を発揮するものを見つけられることもあるはず・・・




12/01 00:50
[日常]
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-エムブロ-