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少年ドラマシリーズの説明

そうすれば、方法は元来歴史的なものそのものに外ならぬ。かくて科学方法論は知識社会学に結合しなければならない義務を初めから負わされていた筈ではないか。――だが現存する科学方法論と現存する知識社会学とには、事実到底このような結合を望むことは出来ない。実際そういうことは多少見当違いのことだろう。併し何故見当違いなのか。
外でもない、方法論は方法を、全く固定した事物としてしか理解せず、之を歴史的な動的発展に於て捉えようとしないし、知識社会学は知識――科学――の発展を、科学の内容(それが方法論理真理価値だ)の発展として理解せず、従って又科学の真に歴史的[#「真に歴史的」に傍点]な発展として捉えようとはしないからなのである。――で吾々の課題はこうなる、科学の方法[#「方法」に傍点]を歴史的[#「歴史的」に傍点]原形質にまで掘り下げ、同時に科学の社会的(歴史的[#「歴史的」に傍点])存在を方法の核にまで追跡する。この課題はどう展開するか。
一方に於て科学方法論は、科学的諸根本概念構成のイデオロギー的制約の問題[#「イデオロギー的制約の問題」に傍点]として、他方に於て知識社会学は科学に関するイデオロギー論の問題[#「イデオロギー論の問題」に傍点]として提出し直されねばならない。見られるように、こうすれば、二つの独立に見えた理論は、誤る余地なく、統一に齎されざるを得ないだろう。

 

木炭製造とは

この場合修辞学は我々に必要な手懸りを与え得るように思われる。修辞学は端的に表現に関係している。我々は表現するために修辞学を用いるのである。修辞学は表現の理解に関係するのでなく、かえって表現の作用に関係している。そこに元来ともにロゴス(言葉)に関係するものでありながら解釈学と修辞学との性格的な相違が認められる。次に修辞学は表現作用の立場に立つものとして表現の技術性について知らせる。修辞学は何よりも技術である。それは表現的であるためには技術的でなければならぬということを我々に教える。表現的なものは技術的であるということは、修辞学にとっていわば公理である。そしてそれは実に表現の本質に関わる重要な認識でなければならぬ。単に表現的な言葉のみではない、あらゆる表現的なものは技術的に形成されたものである。自然のごときも表現的なものとして技術的である。かの自然美の問題のごときも、自然の技術性を基礎とすることによって考えられ、かつこれと芸術美との統一も考えられることができるであろう。しかし修辞学はもとより単に美を目的とするものではない。修辞学はギリシアにおいて単に言葉の装飾や美化のためのものであったのでなく、むしろ社会的実践的な目的を有したのである。それはもと芸術と特殊の関係があったのでなく、むしろ社会的政治的活動と密接に結びついていた。市場や法廷や国民議会がギリシアにおける修辞学の固有の場所であった。表現論と審美主義とは分離することができ、また分離して考えられねばならぬ。

造船機械器具製造とは

もしヨオロッパ全体が不作となるならば、ある国はその穀物の輸出を全然禁止し、またある国はそれに極めて高率の課税をするであろう。そしてもし我国が百万クヲタアか百五十万クヲタアを獲得し得るとすれば、おそらくそれでせいぜいであろう。しかしながらその場合には、我国は二百万クヲタアか百五十万クヲタアだけ不足することとなる。他方においてもしも我国が自分の消費分を生産するを常としており、そして不作のため百万クヲタアだけ不足を来したというのであれば、たとえヨオロッパ全体が不作だとしても、我国の価格騰貴の結果として三、四十万クヲタアを獲得出来ないとは考えられない。いわんや我国の穀物と労働の通常の価格が他のヨオロッパ諸国よりも高いとすればなおさらのことである。従ってこの場合には、我国の不足の全量は、百五十万ないし二百万クヲタアではなくて、わずかに六、七十クヲタアに過ぎないであろう。もしも今日(一八一六―一七年)その穀物生産量が平常その消費分に著しく及ばないという状態に我国があったならば、我国の困窮は更に甚だしく加重されたことであろう。
この種の事変に備え、かつより[#「より」に傍点]豊富な同時にまたより[#「より」に傍点]安定した穀物の供給を確保するために、穀物条例の制度が推奨され来っているのであるが、その目的は、関税または禁止によって外国穀物の輸入を阻止し、奨励金によって国産穀物の輸出を奨励するにあるのである。
この種の制度は我国においては一六八八年に完成されたが1)[#「1)」は縦中横][#「1)」は行右小書き]、アダム・スミスは[#「アダム・スミスは」は底本では「アダムス・ミスは」]この政策をかなり詳細に取扱っている。

ファスナーについて思う

パスカルというのはそのように不思議な存在なのである。もちろん、現在では事情が変っている。『パンセ』を初めパスカルのいくつかの作品が翻訳され、広く読まれている。私のパスカルもその後徐々に読者を見出すようになり、今も版を重ねている。出来不出来は別として、処女作の出版というものは著述家にとってつねに懐しい思い出である。
パスカルやモンテーニュから入って、私はフランス哲学に対して次第に深い興味をもつようになった。それもさかのぼると、西田先生の著書や講義でメーヌ・ドゥ・ビランなどという、当時わが国ではあまり知られていなかった哲学者のことを知らされて、未知のものに対する憧れを感じたことに由来するであろう。私はいつも未知のものに対して憧れてきた。マールブルクからパリへ、永らく考え慣れたドイツ哲学の土地を離れて出て来たのも、未知のものに対する憧れからであった。西田先生は近年ことによくフランス哲学の研究をひとに勧められていたようである。パスカルについて書いているうちに、次に書いてみたいと考えたのはデカルトであった。その時分シュヴァリエの『パスカル』および『デカルト』を読んで、その明晰な叙述から利益を受けたが、それに影響されたというものであろうか。この次はデカルトについて書くとたびたび友人に話し、一度は私のデカルト研究というものの予告が書肆の広告にも出たくらいであるが、いまだに実現しないでいるのは恥しいことである。――今度『文学界』にデカルト覚書の連載を始めたのも、いつまで続けられるか分らないことではあるが、せめて当座の埋合せにしたいためである。
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