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さし物業について説明&紹介

加来  その二つの道が次第に大きく分れて、同時に歩けなくなるところから、危篤状態がはじまるんだと思ふが、どうです?
早見  厳密に言へばさうです。
加来  学者は常に厳密を尊ぶものだ。いい加減なことは言はないでくれたまへ。ほんとに、もう望みはないんでせうね。僕は、とつくに、そのつもりでゐるんだ。準備はすつかりできてゐるんだ。会ひたい人間にも会つた。言ひたいことも言つてしまつた。心残りはなんにもない。早く、おしまひにしたいんだ。
冬菜  でも、あなた、早見先生がかうして来てくださるのは、まだ全然……。
加来  君の言ひたいことはわかる。そんなことはわたしにでも言へることだ。わたしは、早見君から、もう一度、はつきり、ダメだと宣告してもらひたいんだ。
早見  加来先生、そんな無理を言はれちや、困りますよ。わたしは、ただ、どんな場合でも、危険信号を出す以上のことは、医者の責任から言つても、良心から言つても、絶対にできないし、また、それをする必要はないと思ふのです。
加来  それでは、おたづねするが、昨日と今日と、危険の程度に変化がありますか。
早見  ありません。

欧風料理店について説明&紹介

しかし自己の冒す危険に対しその上四分の一を受取らない地主は寛大な地主だと云われている。従って耕作者の取分となる分量は、そのみじめな家族が辛うじて暮して行くに足る以上ではないのである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
数の点ではアビシニアで最も有力な民族の一つたるアゴウ族は、ほとんど信じられないような窮乏と貧困の状態に生活している、とブルウスは述べている。彼は云う、吾々は人間とは思えぬほど皺がより陽に焼けた多くの女が、炎天の下で、背中に一人または時には二人の子供を背負って、一種のパンを作るためにみやまぬかぼの種子を集めながらうろついているのを見かけた1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。アゴウ族の女は十一歳で子供を産みはじめる。彼らは大体その年頃で結婚するが、彼らの間に不姙というようなことは知られていない2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。アビシニアの国境都市の一つたるディクサンにおいては、唯一の取引は子供を売ることである。毎年五百人がアラビアに輸出され、そして欠乏の年にはその四倍くらいに上る、とブルウスは云っている3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。
アビシニアでは一夫多妻は規則的には行われていない。ブルウスは実際この点については妙なことを云っている。すなわち彼は云う、吾々はジェスイット僧が結婚や一夫多妻についていろいろなことを書いたのを読んでいるが、しかしアビシニアには結婚というが如きものはない、ということほど確かに断言しうるものはない、と。

囲碁教室について説明&紹介

何となれば、かかる立場の純化――その整合の徹底――はかかる立場の絶対化なのであるから。そしてその結果は懐疑論なる認識論的立場[#「立場」に傍点]であることを人々は知っている。立場としての相対主義のこの絶対化――絶対主義――の観想的[#「観想的」に傍点]な性格が、この場合判断中止[#「判断中止」に傍点]となって現われるのは当然である。処が吾々の相対論の問題[#「問題」に傍点]――立場ではない――とする処は、恰も之と正反対に、問題の現実的な実践的[#「実践的」に傍点]な解決であったのである。――故に一般に所謂相対主義と所謂絶対主義の対立は、実は二つの立場[#「立場」に傍点]の対立であるのではない。そうではなくして正に、問題[#「問題」に傍点]の概念と立場[#「立場」に傍点]の概念との対立に相当するものなのである。それ故所謂相対主義は、絶対主義と対等な資格を有つにも拘らず、立場としては[#「立場としては」に傍点]一応薄弱に見えるのである。そして問題の概念を重んじることと立場の概念を重んじることとのこの対立は、実は又二つの問題[#「問題」に傍点]の対立――例えば歴史的社会的問題[#「問題」に傍点]と形而上学的神学的問題[#「問題」に傍点]との対立――に動機づけられているに外ならないのである。相対主義と絶対主義とを、二つの立場[#「立場」に傍点]として対立せしめれば、そこに結果するものは水掛論である、吾々は既にそれを見た。そうではなく之を二つの問題[#「問題」に傍点]に於て対立せしめれば、二つの主義は調停の条件を持ち合うことが出来るであろう*。――かくて問題の概念が立場の概念を優越する間接の証拠は、茲にその一つを示してはいないか。

スポーツ用手袋製造について思う

実際、例えばマクドゥーガルの単に心理学的な集団心の概念――それは実は国民[#「国民」に傍点]を説明するための準備なのだが――が至極不合理であったに較べて、これは遙かに合理的な説明を与えられることが出来る。集合表象は、「与えられた社会群に共通[#「共通」に傍点]であり、時代から時代に推移し、個人を強制し、個人をして場合々々によって、この表象対象に対する尊敬・恐怖・讃嘆の感情を懐かせる」ものだというように*。もはや集合心(ル・ボンの l'a^me collective やマクドゥーガルの group mind, collective mind)というような、個人心から独立した心[#「個人心から独立した心」に傍点]が存在するのではなくて、各個人に共通な、個人としての個人の心の機能とは異って機能する、集合表象という表象の仕方[#「表象の仕方」に傍点]が行なわれるに過ぎない。――このように説明されてこそ初めて、社会心の概念――集合心・群衆心理等々――も、一応は落ち着くべき処に落ち着くことが出来るだろう。
――序でに読者は注意すべきだ。この書物の名前が例えば社会の心理[#「社会の心理」に傍点]というようなものの研究を意味してはいずに、社会に於ける心的機能[#「社会に於ける心的機能」に傍点]の研究であることを。 デュルケム乃至レヴィ・ブリュールによって与えられた、原始民族の意識と文明人の意識との相異その他に就いては、今は省こう。今大事なことは、デュルケム乃至レヴィ・ブリュールによる意識の分析が、社会の分析から出発すると云う点にあるのである。それは所謂「社会心理学」と方向を反対にする。

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