2023/2/6 Mon 00:56
NHK大河ドラマ『どうする家康』に早くも登場、「忍者ではない」服部半蔵と「イカサマ野郎」本多正信の実像…の巻





話題:歴史







──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく!

※劇中では主人公の名前はまだ「松平元康」ですが、本稿では「徳川家康」に統一しております。家康に限らず、本連載において、ドラマの登場人物の呼び方は、原則として読者にとってなじみの強い名称に統一します




『どうする家康』第4回で、信長(岡田准一さん)が家康(松本潤さん)に妹・市(北川景子さん)との結婚を勧めてくるのではと予測しましたが、まさかの大当たりでびっくりしています。

家康が初恋の人で、兄から提案された祝言に喜んでいるお市の方を、北川景子さんが好演なさっていました。

ドラマのお市にとっては、最終的に悲しい結果となってしまいましたが……。

聞くところによると、『どうする家康』同様に古沢良太さん脚本となる映画『レジェンド&バタフライ』は、織田信長とその正室である濃姫の物語で、「桶狭間の戦い」で信長が見せた独創的な今川義元奇襲作戦も、斎藤道三から戦術指南を受けた濃姫の立案という設定なのだとか。

『どうする家康』も、考証スタッフの意見に左右されず、己が描きたいものを描きたいように描く脚本家・古沢良太さんの独断場となっていきそうですね。

第5回「瀬名奪還作戦」も、時代考証関係者のボヤキが聞こえてきそうな内容になりそうです。

公開された「あらすじ」によると、「元康は、駿府に捕らえられている瀬名(有村架純さん)を取り戻そうと決意。家臣たちの反対を押し切り、イカサマ師と呼ばれ嫌われている本多正信(松山ケンイチさん)の妙案に望みを託す。正信は、伊賀忍者の服部一党を使い奪還作戦を立てるが、頭領の服部半蔵(山田孝之さん)は過去の失敗ですっかり自信を失っていて…」となっており、日本史に詳しい方なら「えっ!?」と驚くことでしょう。

史実の家康は、今川家とゆかりの深い鵜殿長照(うどの・ながてる)という武将が父子で守る難攻不落の上ノ郷城(かみのごうじょう、現在の愛知県蒲郡市)を巧みに攻め落とし、鵜殿父子の生け捕りに成功しました。

そして、人質交換という形で今川氏真の捕囚となっていた妻子を取り戻したと伝えられています。

ここで家康が選択したのが、「夜討ち」という奇襲作戦で、それを主導したのが「忍び」と呼ばれる人々だったということは重要なポイントです。

鵜殿一族出身で、後に僧となった日翁という人物が江戸時代初期の寛永年間(1624〜43)にこの戦を回想した記録(『鵜殿由緒書』)によると、「家康公(略)江州(略)の多羅尾四郎兵衛(たらお・しろべえ、多羅尾光俊)と云ふ大名の元より、忍びの上手を呼び下し」云々とあります。

この文書における「忍び」の語が指すものは、現代人がイメージするような「忍者」ではありません。

家康たち当時の武士は、いわば貴族層で、正規の軍人でもあります。

しかし、戦国時代、各地には“半農半武”の人々による自警団が数多く結成されていました。

「忍者」の代表格として現在では考えられがちな「甲賀者(こうかもの)」「伊賀者(いがもの)」と呼ばれる集団も、史実ではそういう“半農半武”の人々のことだという理解でよいと思います。

彼らは身分的にはいわゆる雑兵、民兵にすぎません。

しかし、農民に武器を持たせただけの通常の足軽とは異なり、『鵜殿由緒書』で「忍び」と呼ばれたような人々には、一般的な武将たちでは及びもしない驚異的な身体能力や、現代でいえばゲリラ的な戦闘のノウハウがあったと思われます。

鵜殿父子がこもる上ノ郷城は、巨大な土塁(土を盛って造られた壁)を持つことで有名な城だったので、正面から攻める作戦では犠牲が多く出る危険がありました。

それゆえ、家康は機動力に長けた「忍び」たちを、部下のツテをたどって呼び、彼らに協力を求めたのだと考えられます。

『どうする家康』のノリからすると、ゲリラ戦術どころか、忍術、妖術入り乱れてすごいことになりそうですが……。

ここで、家康の上ノ郷城攻めについて記した『鵜殿由緒書』にお話を戻します。

多羅尾四郎兵衛が江州の大名だという記述からもわかるように、多羅尾家は甲賀が拠点です。

上ノ郷城攻略戦において、本当に活躍したのは、第5回のあらすじにあったような「伊賀忍者の服部一党」ではなく、甲賀の「忍び」でした。

史実では、家康のために多くの人々が甲賀から駆けつけ、上ノ郷城内に夜闇に紛れて忍び込み、櫓(やぐら)に放火したので、敵方は大混乱に陥りました。

その状況に助けられ、家康軍は難攻不落の城を落とすことができたのです。

また別の史料では、家康が、甲賀の者たちと交流のある家臣・戸田三郎四郎たちを同地に派遣し、家康の危機を知った伴与七郎や鵜飼孫六など280名もの甲賀の忍びたちが駆けつけてくれた(『改正三河後風土記』)ともあります。

いずれにせよ、ドラマで描かれるであろう、忍びの者たちを率いた服部半蔵の活躍というものは史実ではなさそうですね。



■服部半蔵は忍者ではなく「武士」で、「忍者のリーダー」でもない

ではなぜ、甲賀者の手柄のはずが、ドラマでは伊賀者の活躍に変わってしまうのでしょうか?

その理由はシンプルで、ドラマの前半の山場になるであろう「神君伊賀越え」において、服部半蔵と彼が率いる伊賀忍者の一党が、今回の大河でも大活躍する予定だからでしょう。

さらに、服部半蔵はいわゆる「徳川十六神将」の一人で、人気キャラですから、そんな半蔵が「伊賀越え」で初登場するのではダメだろうという“大人の理由”があって、史実が大胆にアレンジされたのだと思われます。

いきなり出産シーンで登場した松嶋菜々子さん演じる於大の方のように、山田孝之さんというビッグネームが演じる服部半蔵にも印象的な登場シーンが必要という判断なのでしょうね。

これも後に詳しくお話する機会があると思いますが、「神君伊賀越え」において伊賀忍者たちが活躍したという話は、実は昭和10年〜30年代の「(第二次)忍者ブーム」の中で作られた“ストーリー”にすぎず、幕府の公式史である『東照宮御実記』において、服部半蔵や伊賀忍者の道案内という要素は登場しません。

それどころか同書には「近江国甲賀のその土地の侍など100人余りが道案内に参上した」と書かれているのです。

それにしても、史実の服部半蔵とはどんな人物なのでしょうか?

彼から見て1歳年下の家康に仕えた服部半蔵こと服部正成は、忍び道具ではなく、槍の名手として知られる人物で、彼の祖父の代から三河に移住した武士の一族の出身です。

つまり、『鵜殿由緒書』に見られるような、ゲリラ戦法を得意とする「忍び」の者ではありませんでした。

「服部半蔵」とは、戦国後期以降、服部家の当主の男性が名乗った“ビジネスネーム”です。

当然、二代目・服部半蔵こと正成には「私は松平家=徳川家に代々仕えてきた三河武士である」という自認があったと思われます。

ドラマ公式サイトのプロフィールに「本人は武士と思っている」とあるのは、この部分を反映させたものでしょう。

一方で「忍者ではないが、忍者の代表」とも書かれていますが、実際に彼が率いることになったのは最下層の兵卒(のちに「伊賀同心」などと呼ばれる)で、我々が想像するような「忍者」たちのリーダーではありませんでした。

また、第5回のあらすじでは、服部半蔵ら伊賀忍者の起用を提案するのが本多正信とされていますが、前述のように服部家は代々松平家に仕えてきた武士であり、本多正信がわざわざ仲介する必要は本来ありません。

むしろ、史実において、当時の服部半蔵と本多正信の接点は不明なのです。

「不明」だからこそ、「もしかしたら、あったのかもしれない」と考え、想像の翼を広げるのは自由ですが……。

第5回は服部半蔵とともに本多正信の初登場回となりますが、この時期の正信の評価については史料が乏しく、詳しく知ることはできません。

ドラマの公式プロフィールでは「家臣団の嫌われ者」「大久保忠世(小手伸也さん)の紹介で登用されるが、胡散臭く、無責任な進言をするイカサマ野郎」とひどい書かれぶりですが、後に家康のブレーンの一人として家臣団の中で急速な出世を遂げる正信は、若い頃に家康を裏切って逃走していたことがあります。

それも約20年もの間、家康のもとを離れていました。

永禄6年(1563年)、三河の一向一揆鎮圧戦において、一向宗信者だった正信は、家康ではなく、一揆側に味方しただけでなく、戦後、勝者となった家康が、離反した正信たちに寛大な処置を提案したにもかかわらず、正信は家康のもとには帰りませんでした。

そしてそのまま、先述のように約20年も戻ることはなかったのです。

いつ、どのように家康と正信が“復縁”したのかはよくわかりません。

時期は天正11年(1583年)ごろだと推定する学者もいます。

このとき、家康と彼の間をつないでくれたのが、本多家のライバルである大久保家の面々だったそうですが、主君に対し、20年間もの不義理をおかしたツケを正信は払わねばならず、家康のそばに仕えることは許されたものの、「鷹匠(たかじょう)」という役職につかされたともいわれます。

家康が鷹狩りを愛好したのは有名ですが、これは専門的なトレーニングを施した鷹や隼などの猛禽類と協力して獲物を捕まえる伝統的な猟法です。

鷹狩りに用いられる鷹たちの世話が鷹匠の主な仕事ですが、一般的に身分の低い者がつく役職でした。

これまでの伝統的な大河ドラマならば、前述のような事情から、本多正信は登場しない期間のほうが長く、彼が本当の意味で活躍し始めるのは「本能寺の変」よりさらに後年、ドラマの後半になるでしょう。

ただ、古沢氏の独断場となりそうな『どうする家康』は伝統的な価値観とは離れてつくられているドラマのように見受けられますし、史実を大いに逸脱したオリジナル要素が付与され、本多正信も通年で活躍してくれるかもしれません。

近年の松山さんは、腹に一物抱えた人物の演技が似合う役者さんです。

ドラマの家康家臣団は基本的に「いい人」ばかりなので、毛並みが違う家臣もいないと締まりません。

それゆえ、「家臣団の嫌われ者」「胡散臭く、無責任な進言をするイカサマ野郎」な正信を演じる松山さんには大いに期待したいところですね。

(日刊サイゾー発)










上ノ郷城を攻め落としたり、家康「伊賀越え」をサポートしたのは甲賀者であり、伊賀者にあらず。

大河ドラマは作り話なので、史実と思うことなかれ。( ̄ー ̄)



ブー(^0_0^)



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