雨が降っていた。細く冷たい、秋の雨だった。
 夜も更け、夕食時のピークも過ぎた時間帯。この冒険者の酒場の中も、今日一日降り続けた雨のせいか、客の姿はまばらだった。
 糸のように窓を濡らす雨音、遠い波音、弦の調べ、そして歌声が響く。
 男は酒場のカウンターに腰掛け、琵琶に似た型の撥弦楽器を奏でていた。
 緑青色の髪をした、若い男だった。年の頃なら二十代半ば。短い髪、ひょろりと長い体躯に、酒場の給使服を纏っている。目を閉じ、細長い指先で楽器を爪弾き、朗々としたよく通る声で物悲しげに歌っている。
 やがて旋律は最後のフレーズに至り、余韻を残しながら消えて行った。

 誰も一言も発さない。
 男は軽く息を吐くと、そっと目を開け、次いで顔を上げた。深海を思わせる眼には、どこまでも屈託の無い輝きがあった。

「……どうかな?」

 酒場の中のオーディエンス達に語りかける。
 少し遅れて拍手が上がった。チョコレート色のセミロングの少女がすっかり感極まった様子で涙ぐんでいた。

「すごくよかったです! わたし、すっかり聞き惚れちゃってました……!」

 十代前半と思わしき小柄な少女は、ストロベリー色の大きな瞳に浮かんだ涙を拭った。全体的に小造りな顔の中、柔らかそうだがやや太めの眉毛が特徴的である。新品らしきローブに身を包んだ姿は魔法使い見習いにも見える。

「わーい、ミーナありがとー。ケトルもリクエスト主としてなんか感想無い――」

「――違うッ!!」

 ケトルと呼ばれた少年は、のほほんと男が返すのを遮り、ほとんど叩きつけるように叫んでいた。

「おいマイト、誰がンな辛ッ気臭せえ曲歌えっつったよ!? 『雨だからヒマだしちょっと歌え』って言われたら普通は明るい曲チョイスすんだろーがッ!!」

 ケトルは少女に向き合う形でテーブル席に座っていたが、勢い良く立ち上がり、短く切ったハニーブロンドを振り乱し、男――マイトに指を突き付けた。

「しかもなんで『冒険者として旅立った男が故郷に帰ってみたら、将来を誓い合った恋人が結婚してました』って歌詞!? お前ここドコだかわかってる!? 『冒険者の酒場』だよ!! 見ろようっかり聞いちゃった客みんなダメージ喰らってテーブルに突っ伏して死んでんじゃんッ!! なんだこの範囲攻撃!!!」

 マイトは再度店内を見渡した。耳を済ませばあちこちで啜り泣く声が聞こえてくる。

「で、でもさあ、この曲は昔から歌われてきた有名な歌謡曲をこの楽器に合うようアレンジしたものだよ? 今更ダメージがどうのって言われても……」

「シャラップ!! しみったれた空気でしみったれた曲演奏すんな!!」

 水平線を思わせる淡い青色の目には、やはりと言うべきか、薄く涙の膜が張っていた。ミーナよりは二つ程年上だが、その表情にはまだまだ精悍さよりも幼さや愛嬌が目立つ少年だった。簡素な武具を身に付けてはいるが、それらに着られている感があった。

「ま、まあまあケトル、落ち着いて下さい。素敵な演奏を聞けたからいいじゃないですか」

「いやぁ、照れるなあ」

「今そういう話してないからね!? マイトが間抜けだって話しかしてないからね!?」

「あ、ひょっとしてケトルも故郷に恋人を残していたりするの?」

「カリンちゃんはヴォルフラム一筋でおれのコトなんかノー眼中だったよ!!」

 ケトルがテーブルに手を叩きつけた。地味に痛かったが我慢する。
 ちなみにミーナが低く「カリンちゃんて……誰?」と呟いたが、鈍い男二人は気付かなかった。

「……うん。ケトルもそのうちいいことあるんじゃないかなあ。たぶん」

「そこは断定しろよ! してくれよ!!」

 などと言い合っていると、のそりと中年が厨房からカウンターに顔を出した。カウンター越しにマイトの肩に手を置く。
 厚みのある筋肉に覆われた堂々とした体躯に、鬣と長い尾を持った、エプロン姿の獣人だった。剥き出しになった腕だけでも、子供の胴体くらいの太さがある。彼がこの酒場の店長である。

「おやっさん! こいつに言ってやって、言ってやって!!」

 ケトルが勢い付く。店主は空いている手でそっと目頭を押さえた。鼻を啜る。

「……久々に妻と娘のことを思い出しちまったよ。手紙を書こうと思うから、クローズ作業はお前がやっといてくれ」

「ラジャー、ボス。任された」

 渋味のある声色。口を開くと、発達した犬歯が見え隠れした。
 手を振って店主を見送るマイトへと、ケトルは疑問を投げ掛ける。

「そーいやお前、おやっさん紹介する時に『髭面のおっさん』って言ったよな?」

「髭生えてるじゃないか」

「それ以外にもっと特徴的なことあんだろ!? 鬣とか獣耳とか尻尾とかさあ!!?」

「肉球もあるよ」

「マジかよ!? いや重要なのはそこじゃなくてだな……!!」

「奥さんと娘さんも獅子なんですか?」

「らしいよー。故郷に残して来たってさ。たまに手紙来る」

「いや戻そうぜ話題!?」


 ひとしきり叫び、ケトルは頭を抱えた。酸欠でクラクラする頭を支える。

「ヤバい……ミーナとマイトの背景にお花畑が見える……」

「ケトル、お疲れですか?」

「寝るなら二階の自室に行ってくれよ」

「疲れたは疲れたけどツッコミに疲れたんだよ!!」

 ある意味では冒険に行った時以上の疲労感があった。

「ここって冒険者を癒すための酒場だよな……?」

 ついに脱力し、ケトルはべったりとテーブルに突っ伏す。思わず漏れた弱々しい疑問に答える者は、誰もいなかった。