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スターウォーズ感想

スター・ウォーズエピソード8最後のジェダイを鑑賞しました。個人的にはエピソード7よりは宇宙感はあったと感じましたが見所はドレッドノート撃墜くっ殺ファズマさんと最後の基地攻防戦だけで中盤の中弛みが駄目な所だと思いました。互いのフォースがリンクした時に会話するレイとカイロ・レンの顔アップという動きのないシーンの応酬、敵のファースト・オーダーの艦隊を前に内輪揉めを起こしちゃうグダグダな同盟軍、レイアの生きとったんかいワレ!なシーンとか、この場面必要ある?ってのが気になってしまって。
動物含め新キャラクターも魅力がなさ過ぎなのも駄目な所です。つぶらな瞳の鳥に姉を亡くしたローズ、吃音持ちの錠前師など尽く外してる。色々と描写不足感は否めませんね。
一言で言うなればこれはキャリー・フィッシャー
追悼映画。
ストーリーは、ファースト・オーダーによって窮地に追い込まれる同盟軍と、自分自身の目覚めたフォースの力に戸惑いこれからすべき事の答えと同盟軍への協力を求める為ルークの元でジェダイとしての修行を積むレイが軸です。物語の中でカイロ・レンがダークサイドに堕ちた理由となった過去の真実が明かされる訳ですが、ベン・ソロの心を救える可能性という希望が完全に潰れてしまった。レイが健気なだけにそりゃないよと思ってしまう訳で。
一応擁護しますとファン向けの演出はちゃんとありましたよ。ミレニアムファルコン内で懐しそうにするルークやヨーダの登場、R2D2にオビ=ワンへ助けを求める若きレイア姫の映像を見せられるルークとか。でも新しいスター・ウォーズとして人に勧められるかと聞かれたら私はう〜ん、となってしまうのですよ。
以下はネタバレ有りの個人的感想です↓

・ローズは必要なキャラクターだったのか

ドレッドノート撃墜作戦で姉が死んだローズという整備士の女性(アジア系ヒロインという人種に考慮したキャスト)が登場し、極秘作戦の為にフィンと行動を共にするのですが、彼女が本当に魅力がない。それは容姿の問題ではなく、フィンがレイと結ばれないようにする為に突如現れた感が半端ない。フィンに酷い仕打ちをした上に、幾ら姉の仇の為と言えど前線で戦い、戦争が嫌いだから戦争を商売にしてる(武器を提供してる)カジノの街を荒らし、フィンを生かす為とは言え危険な真似をし、更にはキスまでしてしまうという、トンデモな子に成り下がってる(しかもフィンに惹かれていく描写がない)のが残念過ぎる。

・伝説のジェダイという呪縛に囚われたルーク

冒険をしてヒーロー気分でいたルークがジェダイとしての覚悟を決めて帝国と戦う話がエピソード4〜6だった。そんなルークが孤島で隠遁生活をしている上に頼ってきたレイすら拒絶する。
彼はジェダイは滅びたと口にしレイアを助けてくれる筈というレイの期待を退け、ジェダイとしての修行すらもまともに取り合ってくれない、ただの嫌な偏屈老人のようにされてしまっている。
勿論それはダークサイドに目覚める前にベン・ソロを殺そうとしてしまった罪悪感や負い目からなのだろうけれど。レイに最後のジェダイとしての役目だけ託してあっさり退場なんて。
レイが「私はベン・ソロのようにはならない」と言ってようやく重い腰を上げたのに。

・私情で動くポー・ダメロン

若くて血気盛んで無謀かつ組織の方針にも逆らうエースパイロット。彼は7での扱いの挽回を果たした筈なのに常に同盟軍にとっての厄介者扱い。
暴走した彼が上司にブラスターを向けるのは彼の性格を強調する為だったのだろうけれど、結果的に幼稚な精神の青年にされてしまっている。そのせいで、レイとのフラグが成立した時に違和感を覚えてしまう。彼の未熟さにレイがこの先惚れる事あるのだろうかと疑問が拭えない

・更に私情で動くカイロ・レン

師匠に裏切られダース・ベイダーに陶酔するようになったカイロ・レン。今回は完全にマスクを脱ぎ捨て(エレベーターにガンガンぶつける様は子供のようでシュール過ぎる)
彼は自分をダークサイドへ誘惑したスノークすらも手に掛けて(心の弱さがあるからダースベイダーにはなれないと言われた事に腹立てたのか)自分が銀河の新たな支配者になると厨二病めいた発言をしレイへ手を組めと勧誘する、ある意味ダース・ベイダーを踏まえた行動をしているんだけど、やっぱり彼に足りないのはカリスマ性。ルークに対する逆恨みを隠さない部分をハックスにやや呆れられてるあたり、彼には強いフォースが使えても支配者の器ではないと感じてしまった
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ある日どこかでレビュー

小説版のアイ・アム・レジェンドやリアル・スティールを書いたリチャード・マシスン原作の映画。スーパーマンを演じたクリストファー・リーヴがリチャード役で主演。舞台はマキノー島に実在するグランドホテル。
1972年。ミルフィールド大学で脚本家志望のリチャード・コリアーの処女作上演後のパーティー会場に、成功を喜ぶ彼を会場の隅から見ている上品な老女がいた。
彼女はリチャードに歩み寄り、「(私の所へ)帰ってきて」という不思議な言葉と共に懐中時計を手渡し去っていった。周りの皆は誰一人として彼女が何者なのか知っている者はいなかった。そして彼女はグランドホテルの自室に戻り、リチャードの書いた脚本を胸に抱いて思い出の曲を聴きながら、その夜静かに息を引き取った。
8年後の1980年、脚本家となったリチャードは仕事も私生活も行き詰まっていた。彼は原稿を求めに来る編集者から逃げるように車で旅に出る。
そしてドライブの途中で通りかかったグランド・ホテルに、引き寄せられたかのように宿泊した。レストランのオープン前に立ち寄ったホテル内の歴史資料室で、リチャードは背中に熱い視線を感じた。振り返ってみると、そこには若く美しい女性の写真が掛かっていた。しかし、名札は外されていた。ホテルの老ボーイのアーサーに尋ねると、彼女はそのホテル内の劇場で公演をした女優であることを知る。
その時から、リチャードは彼女のことが頭から離れなくなり夜も寝つけなかった。そして彼女についての調査に没頭し、写真の主は1912年当時、人気のあった女優エリーズ・マッケナであり、1912年以降活動しなくなったことを知る。また、彼女のメイドだったローラに話を聞きに行ったさいに、彼女が1972年の夜に亡くなったことも知る。
彼はさらに調査を進めていくが、彼女の愛読書がリチャードの哲学教師の著書である『時の流れを超えて』であることに驚き、ここで「帰ってきて」の意味を知る。さらにホテルの過去の宿泊名簿から自分が1912年に時間旅行している事実を見付け出した。リチャードは時間旅行を研究するフィニー教授に相談し、「現代の所持品を捨て、行きたい時代の品物を身に付けて催眠術をかける」という方法を聞き出し、1912年の衣服・硬貨を身に付け、ホテルの一室で自分に催眠術をかける。

目を覚ますと、リチャードは1912年に時間旅行していた。彼はホテル中を探し回り、ホテルの側の湖畔で佇むエリーズを見付け出し彼女に接触するが、マネージャーのロビンソンに追い返されてしまう。リチャードは警戒を続けるロビンソンに追い返されながらもエリーズと接触を繰り返し、彼女は次第にリチャードに惹かれていく。ロビンソンの予言めいた言葉−−運命を変える人と出会う、彼女はそれを信じていたからだ。
エリーズはリチャードを公演に誘い、舞台で台本を無視した台詞を言い始める。その言葉はリチャードに向けた愛の告白であり、リチャードは彼女の気持ちを確信するが、その直後にロビンソンに呼び出される。ロビンソンは、自分がエリーズの才能を見出し、世紀の大女優にするために人生を捧げてきたことを告げると同時に、リチャードに対して彼女に近付かないように警告した。
それはロビンソンが純粋にエリーズを女優としてスターへと導こうとする純粋な気持ちからだ。
リチャードはその場を立ち去ろうとするが、ロビンソンの部下に殴られて気絶してしまう。翌朝、馬小屋で目覚めたリチャードはエリーズを探すが、既に公演の役者たちはホテルを出て行ったことを知りショックを受ける。エントランスで立ち尽くすリチャードは、役者たちと別れてホテルに戻ったエリーズと再会し、互いの気持ちを確かめ合った。エリーズは女優としての人生よりもリチャードと生きる幸せを選んだのだ。
エリーズは女優を引退してリチャードとの暮らしを満喫し、結婚後は彼の書いた脚本で女優に復帰することを夢見ていた。リチャードも彼女と人生を共に生きることを考えていたが、衣服のポケットから不意に取り出した硬貨が1979年製造の物だったため、リチャードは1980年に引き戻されてしまう。リチャードは再び1912年に戻ろうと催眠術をかけるが、二度と時間旅行することは出来ず、ショックを受けた彼はホテルの部屋に籠り食事をとらなくなってしまう。数日後、異変に気付いたアーサーが部屋に入り、憔悴し切ったリチャードを発見する。アーサーが医者を呼ぶ中、リチャードは薄れゆく意識の中でエリーズと再会する。
時間旅行が題材のSFラブロマンスで現在と過去でフィルムを使い分ける手法が使われているのが特徴。とにかく過去で写真でしか見れなかったエリーズと出会うシーンは淡い色合いでとにかく幻想的で美しいです。劇中曲としてパガニーニのラプソディーが流れるのですかとても情緒的かつ切ない。違う時代に生きてる2人だからこそ決して結ばれません。悲しい事にリチャードは最終的にエリーズの後を追ってしまう訳でありますが、エリーズが生きた歳まで生きる結末にするとか墓参りへ行くとか別のラストが良かったなぁ。

シン・ゴジラ感想

この映画を一言で表現するなら「庵野秀明監督が趣味全開で作った特撮作品」でしょう。
日本が舞台の東宝ゴジラという懐かしさ(CGのチープさがそれで緩和された)がありつつ、巨神兵東京に現るのテイストもあり、未知の巨大生物が襲来したらこの国はどうするのか?というシュミレーション映画。
まずこの映画には明確な主人公がいません。
矢口蘭堂がメインとして描かれていますが、濃い政府関係者のメンツや、メンバー全員個性的な巨災対、名前の出ないモブ自衛隊員まで全員の『人間像』を描いた群像劇。彼等がゴジラという未曾有の「厄災」に等身大の人として必死に抗う姿がメインの、まさに『現実VS虚構』といった所が歴代のゴジラと違って妙なリアリティーを生み出しています。
ストーリーも単純明快。謎の海中水蒸気爆発と共に出現した巨大生物。首都圏へと上陸した巨大生物はただ歩くだけで甚大な被害を齎す。目的も生態も不明なまま進化を遂げる巨大生物に混乱する日本政府。ようやく駆除すべきとの決断が下されたものの避難中の民間人を巻き込んでしまうと判断した総理の決断により作戦は中止。急遽巨大生物の正体を解析する内に巨大生物災害対策本部は牧教授という人物に辿り着く。彼はこの巨大生物はゴジラと呼んでいた。原発やそれを生み出した日本を憎んだ牧教授が自らの命を以てゴジラを目覚めさすトリガーとなったのではないか−−、そんな憶測が広がる中で1度海へと引き返したゴジラが再襲来。自衛隊はあらゆる兵器で対抗するものの、ゴジラは体内の原子炉を利用し熱線で全てを薙ぎ払い首都圏を炎の地獄に追いやる。
放射能を撒き散らすゴジラを倒すには核しかない−−。核の使用まで期限が迫る中矢口達は最後の賭けへと打って出る……というあらすじです。

とにかくテンポが早い

会議&会議のシーンが多くだらけてしまうのではないかという危惧がありましたが杞憂でした。とにかく情報量の行き来が早い。特に尾頭ヒロミという巨災対のひとりが専門用語を声の抑揚もなく早口で一気に話すので字幕があった方がいいんじゃないかと思ってしまう(邦画なのに)その間にもゴジラは船や車を吹っ飛ばしてビルを下敷きにするものだから「日本政府対応遅過ぎ!」となりましたが、これこそが庵野の描きたかった『現実』であり(実際何をするにも総理の認証が必要な所がこの国を象徴してるよなぁ)という皮肉めいた気持ちにもなります。

ゴジラがキモイ

今回のゴジラは歴代のゴジラ像をリセットするまさに新ゴジラでした。環境に適合して急速進化する、捕食の必要すらない、8つの遺伝子情報を持ち自力で増殖可能、体内に原子炉を持ち破滅の神でもあり福音を齎す存在でもある。ギャレゴジでもゴジラの破壊神と救世主の二面性を作中で描写していましたが、シン・ゴジラは言うなればFF10の『シン』のような存在でした。
第二形態ですら怖くてキモイ。熱線を吐く訳でもなく時速も13kmでしかないのにあのどこを見てるのか分からないギョロ目はキモイ。そして第4携帯で熱線を吐き出す時に下顎が左右に開くのもキモイ。何というか生物なのに生物学的な構造を否定した構造(ディテール)なのが人間には到底太刀打ち出来ない未知の存在−−、使徒のようなモノです。

工場!新幹線!電車!ポンプ車!

ゴジラに血液凝固剤を注入するヤシオリ作戦が発動されたあたりから日本は虚構側に傾きます。化学物質工場のカットが無駄に(?)入ってる訳ですが無駄に格好良いのはずるい。全国の色んな会社から掻き集めたであろうポンプ車も無駄に格好良い。普段の生活では気にも留めないような日本ならではのインフラ物達が一丸となって兵器となりゴジラと戦う、という超兵器に頼らない倒し方に「ウルトラマンファンの庵野はこれがやりたかっただけじゃねぇか」という誉め言葉を贈りたいですよ、ええ。
エヴァっぽいエヴァっぽいと言われているこの作品ですが、エヴァをTVシリーズから見てきた私個人としては、この映画はエヴァで出来なかった事をこれでもかと注ぎ込んだ、庵野自身のエヴァの呪縛からの脱却願望とも言える作品だと感じました。
庵野秀明監督にはエヴァに囚われずこういった映画作品をもっと作って欲しいのですが周囲がそれを良しとしないのでしょうなぁ

目撃

クリント・イーストウッド監督主演作品。
BSのイーストウッド特集はちょっと古いのとかニッチなのとか扱いますね〜。権利料を抑える為なのか。この映画は観た事がなかったけれども彼の渋さに魅せられてしまいました(笑)。
うん、クリント・イーストウッド監督の作品は地味だし結構淡々としている。だがそれがいい。
派手さもない、CGもない、爆音もない、たまにはそういう映画を見たくなるんです。そう、ジャンクフードを食べた次の日にやっぱり白いご飯は美味いし最高だなっていうあの感じに似てます。
若い頃はあれだけギラついていたクリント・イーストウッドが盗みはするけど殺しはしない大泥棒(カリ城以降のルパン三世かよ)ルーサーの役をこれまたアクションシーンもなくスマートに格好良く演じてる。でもこの『目撃』のストーリーの本筋は父と娘の物語であり、「父親」としてのルーサーとしての表情と大泥棒ルーサーの顔とを対比的に分けている。
あらすじは、大富豪サリヴァンの豪邸へお宝盗みに忍び込んだルーサー。しかし金庫のある寝室へ男女2人がやって来る。サリヴァンの若き後妻と痴情を始めた相手の男は何と大統領のアランだった。
酔った勢いなのかアランはサリヴァンの後妻クリスティーヌの首を絞めようとする。クリスティーヌは咄嗟に傍らのナイフを手に取った。(アランを脅すだけのつもりだったのか否かまでは不明だが)
そこへSPの2人がクリスティーヌへ向けて発砲。大統領が恩人の妻と不倫した上に殺めようとしていたなど大スキャンダルだ。大統領補佐官は証拠を隠滅したが、事件の一部始終を目撃してしまった上証拠品を盗んだルーサーは、国家権力の魔の手が娘にも伸びたのを前に勝ち目のない敵を前に孤高奮闘する、というもの。
個人的には切れ者な刑事セス役のエド・ハリスもいい感じに存在感がありました。ルーサーが犯人だと目星をつけてあっという間に居場所を暴き出した後の会話の駆け引きによる緊張感。
それから見所はやっぱり父親に反目しながらも父を心配する娘と、娘を想い命を狙われる彼女の為に国家権力にすら立ち向かう父親の関係ですね。
2人の交わす会話は短くも少ないのだけれど醸す空気感が序盤と終盤で変わっていくのがイーストウッド監督上手いなぁと思いました。
でもアラン役のジーン・ハックマンがいかにもな小悪党過ぎて大統領役にしてはカリスマ性ないなぁとも感じてしまったり。(傷心のサリヴァンですら利用する強かさで狡賢さを出そうとしたんだろうけれど、ウォルター・サリヴァンの役者さんの方が大統領感があって更に小悪党にしか見えない)

でもって落とし前をサリヴァンにつけさせたのも微妙にモヤモヤポイント。サリヴァンは結局復讐心からアランを証拠のナイフで刺し殺しちゃうし、報道ではアランは過労自殺扱いで大統領が突然死亡したというのに禄な捜査もされてないなんて変じゃね?と考えてしまうのは私だけでしょうかね……。
−−・・・とまぁややご都合主義な点はありますが、クリント・イーストウッド監督が映画の中でホワイトハウスのスキャンダルを描いたという事が重要なんでしょうな。イーストウッドは人種差別問題とか移民問題とかそういう問題提起系映画を撮るのが好きだから。

不安で泣きたくなる

アルバイト先の店が閉店する事になりました。
もう本当青天の霹靂ですよ。
この先どうしようと転職活動をしていますが。
未だに気持ちを切り替える事が出来ずにいます。
先行きが見えないという事実に心が折れそうでいます。
1週間後には「面接落ちた日本死ね」とか書いてエントリーしているかも知れない。
年齢的にもネックなので今相棒の「ボーダーライン」を鑑賞したら胃が一気にキリキリしそうです。
天の叢雲自体も年明け更新出来るかも分かりません。
選ばなければ仕事はあるなんて言葉はあるけれど。
現実は厳しい。どこでなら私は働けるんだろう。
そんな事ばかり考えてます。
人生って思ったようにいかないなぁ。
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