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東アジア最大の蛇行剣などの発見で一躍脚光を浴びた奈良市の富雄丸山古墳(直径109メートル、4世紀後半)。昨年12月に始まった木棺の発掘は、副葬品など被葬者の謎に迫る調査とあって全国から注目され、担当者も想像以上の緊張を強いられた。「わずかな遺物も見逃さない」。現場では通常のスコップとは別に、つまようじや竹べらを使って土を一粒ずつ取り除くような作業が続き、青銅鏡や漆塗りの竪櫛(たてぐし)発見に結びついた。
土を少しずつ取り除いてようやく見つかった青銅鏡。木棺の端に3枚が重ねて置かれていた(奈良市教育委員会提供)2月末、木棺の底まであと数センチ。残りの土を竹べらで取り除いていくと、黒光りした金属製品が姿を現した。表面は磨かれたような滑らかさ。「鏡だ」。直径20センチほどの青銅鏡が完全な形で残り、さびもほとんどなかった。
「鏡をのぞき込むと、自分の顔がぼんやり映ったんです」。同市埋蔵文化財調査センターの柴原聡一郎学芸員(28)は語る。さらに、すぐ下にも青銅鏡が2枚埋まっていた。木棺内の副葬品調査が終盤を迎えた中での発見。「気がついたらみんなで拍手をしていました」
現場がこれほど興奮したのには理由があった。10日ほど前の2月16日、柴原さんは報道関係者を前に、しきりに首をかしげていた。木棺に堆積した土の上から金属探知機で調べると、銅の反応があった。銅製の副葬品の存在を確信して掘り進めたが、底まで5センチに迫っても痕跡すら見当たらなかったからだ。
報道陣から副葬品について質問が相次いだ。「実は何かあるかもしれないと堆積土の亀裂から奥をのぞいてみたが、副葬品らしきものは見えなかった」。困惑気味に答えるしかなかった。
発掘は一寸先は闇。青銅鏡はその直下に埋まっていたのだ。当時の状況を柴原さんは振り返る。
木棺の底まであと3〜4センチとなったとき、1枚目の鏡が初めて姿を現した。「ここに埋まっていたのか」。ただし底まであとわずか。「さすがにこれ以上はないだろう」と思いながらも、竹べらで土を取り除くと2枚目が。「まだあった」。さらにその下から3枚目。木棺の最も端に、青銅鏡が3枚重ねて置かれていた。
鏡はいずれも、姿を映す表面が上を向いていたため、文様のある面は見えなかった。裏返せば文様は分かるが、鏡には多数の亀裂があり、動かすと割れる可能性がある。そこで、一番上の鏡の縁をそっと触ってみた。「角張っている。三角形だ」。ヤマト王権が各地の勢力に配布したといわれる三角縁神獣鏡の可能性が高まり、王権との密接な関係が浮かび上がった。
もう一つの副葬品、黒漆塗りの竪櫛が見つかったのは3月初め。竹べらで掘ると黒い漆の膜が確認できた。9点の竪櫛は本体の竹がほぼ腐食し、残っていたのは漆膜のみ。
「べちゃべちゃの粘土に漆が混じった感じ。道具をつまようじに替え、先端で砂粒をつっつくように取り除いた」と柴原さん。長さ30センチ、幅15センチというわずかな範囲を掘るのに、3日がかりだったという。
ほぼ完全に残っていた木棺は、針葉樹のコウヤマキをくり抜いた割竹形木棺。コウヤマキは、ヤマト王権が独占的に管理して各勢力に分け与えたとされる。
ただし、木棺内を区切る仕切板(しきりいた)だけは杉材で、この点に着目するのが福永伸哉・大阪大大学院教授だ。「木棺は被葬者の遺体を納める極めて重要なもの。違う樹種を使ったのには特別な理由があったはず」
大阪府八尾市の久宝寺遺跡の古墳では杉を使った木棺が出土。富雄丸山古墳は、大阪・河内と大和の勢力を仲介したフィクサーとみる福永さんは、杉材の使用は偶然ではないとみる。「富雄丸山古墳の造り出しの被葬者は、河内勢力から杉材を分けてもらったか、河内出身とも考えられる」と推測する。
仕切板には柴原さんも注目する。「棺内の副葬品は青銅鏡と竪櫛だけで、内部を厳密に区切る必要はなかった。木棺の蓋を支える役割もなく実質的に機能していない。追加で取り付けた感じもする」とし、「杉とコウヤマキでは見た目も異なり、埋葬儀礼のときにある程度目立ったかもしれない」と話す。
神は細部に宿る−。蛇行剣や類例のない盾形銅鏡など、特異性が際立つ富雄丸山古墳。謎解きのカギは、木棺の樹種に秘められているかもしれない。
富雄丸山古墳では昨年12月の発掘以来、24時間体制で警備を実施。古墳の前にテントが設けられ、警備員2人が常駐する。深夜も定期的に巡回し、1〜2月の底冷えが厳しい中でも欠かさず続けられた。
発掘が行われている墳丘の「造り出し」は覆い屋で保護されているが、盗掘防止へ万全を期しての厳戒態勢だ。調査スタッフだけでなく、さまざまな支えがあって発掘が成り立っている。(小畑三秋)